1 江戸のまちでおそれられた「虎狼痢」(コロリ)

ドラマ「JIN-仁-」(村上もとかの漫画が原作)をご存知でしょうか。現代の脳外科医が幕末にタイムスリップし、そこで様々な話が展開していきます。この作品のなかにコレラをとりあげたシーンが描かれています。

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致死率が高く、有効な治療方法もわからないある病が江戸の町で猛威を振るっていた。感染すると激しいおう吐や下痢によって体中の水分が失われ、3日程度で死に至ったため、人々から非常に恐れられていた。現代からタイムスリップした脳外科医である主人公、南方仁は「歴史上死ぬはずの人の命を助けて歴史を改変してはならない」という時間移動モノのセオリーに反して、自分ができる限りのことをして目の前の人を救おうと力を尽くす。緒方洪庵やその門下生と協力しながら、当時の江戸にはない「点滴」を用いて人々の治療にあたる。その病とは当時「虎狼痢」(コロリ)、「三日コロリ」ともよばれていたコレラのことである。

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コレラは当時「虎狼痢」(コロリ)と呼ばれ、江戸末期から明治期にかけて、国内で何度か流行を繰り返してきました。この頃の葬法は基本的に土葬ですが、コレラや同時期に流行した麻疹など伝染病の死者の場合には火葬されたことも多かったようです。ちなみに現在の日本の火葬率は99.97%。コレラや麻疹など感染症の流行をきっかけに明治期から徐々に法律がつくられていきました。その後、人口増加による土葬スペースの不足や火葬技術の発展によって徐々に火葬が増えていき、一般に火葬が普及したのは第二次世界大戦後になってからのことです。

土葬から火葬へ。火葬の場所や方法、法律は、感染症の流行とともに伝染病対策という公衆衛生上の観点から整えられていったものです。今回は、江戸末期から明治期にかけて流行したコレラと火葬について取り上げてみたいと思います。

コレラの流行と庶民の葬られる権利を含む日本の墓制の近現代史について、詳しくは問芝志保先生のインタビュー「私たちが知らない、お墓の近現代史 ― 混乱期を迎えている「墓の今」の背景にあるものは」をご参照ください。

2 電話で話すとコレラが伝染る?人々を恐怖に陥れた疫病への迷信とデマ

コレラは、もともとはガンジス川流域特有の伝染病です。1858年(安政5年)、長崎で流行したコレラは、爆発的な勢いで九州から北海道まで拡がっていきました。この年には、頻発していた安政の大地震に加えて、外国船の相次ぐ来航と不平等条約の締結、安政の大獄など政治的にも社会的にも非常に不安定な情勢でした。そこに原因や感染のしくみが分からず、有効な治療法もなく致死率の高い「コロリ」の流行が重なり、人々の恐怖と疫病への強い不安は募る一方。「異国からは悪いものがもたらされる」、「コロリは異国人が「千年モグラ」「アメリカ狐」「イギリス疫兎」を使って蔓延させている悪病である」という妄想を生み出していきました。

人々は祈りやまじないによってこの「コロリ」を遠ざけようとしました。※白沢(はくたく)の絵を身につけたり、家に入れないという瑞獣(青竜、白虎、朱雀、玄亀)の絵を家の東西南北に飾る、加持祈祷、疫病退散のために鐘や太鼓をたたく、狼煙(のろし)をあげて疫病神を追い出そうとする、梅干しを食べる、腹巻をする、といった方法です。各地で疫病退散を祈念する「疫神祭」や「コレラ祭」も盛んに開かれるようになりました。

※白沢(はくたく):中国の想像上の神獣。病魔を防ぐ力があると信じられていた。

参考
くすりの博物館 「はやり病三日ころりのまじない」(外部リンク)

疫病を家に入れないという瑞獣(青竜、白虎、朱雀、玄亀)の絵を家の東西南北に飾った。
その後、明治期に入ってもこれらはたびたび流行を繰り返しました。ドイツのコッホがコレラ菌を発見するのはこれよりまだ数年先の1883(明治16)年です。どうしてコレラにかかるのか。感染のしくみが分からない病は庶民の想像をかきたて、さまざまな「うつる」方法が考え出されました。新規の通信方法である「電話」で話すとコレラがうつる、という噂もその一つです。

3 コレラと火葬場の建設・住民反対運動

1877(明治10)年には、千住火葬場(東京)付近で、「コレラで亡くなった人を火葬した煙を吸うとコレラにかかる」という風評が広まっていました。その後、東京府病院のお雇い外国人プーケマによって火葬場の調査が行われ、火葬がコレラなどの伝染病を媒介するというのは根拠のないデマであること、むしろ伝染病対策に対しては有効な方法であり推奨すべきである、という結果が示されました。

そうして千住火葬場では、コレラと火葬による煙には関連性がないことが明らかになったものの、市街化が進む中コレラによる死者の増加によって次々に運び込まれる遺体や、煙の臭気に対する近隣からの陳情によって、明治20年までに移転することが命じられました。(その後移転先が見つからず明治20年に操業停止。)

4 途切れぬ葬列―江戸庶民と葬儀業の様子

異国人が獣を使って病を蔓延させている、白沢を身につけていればコレラにかからない、電話で感染る……。こうした妄想やデマが生み出され広がった背景には、コレラ感染者の致死率の高さに対して人々が抱く恐怖がありました。江戸末期のコレラ患者の死亡率は約50%と非常に高く、同じころに麻疹が大流行したこともあり、江戸のまちでは葬列が途切れず、火葬場に早桶(はやおけ。円形木棺。埋葬するための棺である木製の桶)が次々と運び込まれたといいます。

当時ばらまかれた刷り物には、「穴掘りの寺男が死者の埋葬にてんてこ舞い」や「早桶(はやおけ)を手に入れるには輿屋(こしや。葬儀屋のこと。)の言い値で買うしかない」「喪服(白無垢)の借り賃が高騰」とあります。「コロリ」によって多くの死者が出たために、寺で埋葬するための穴を掘る男が忙しいことや、棺の桶や喪服が足りずに価格が高騰しているという時事ネタが取り上げられています。

参考
くすりの博物館 「荼毘室(やきば)混雑の図」 仮名垣魯文編 安政5年(1858)(外部リンク)

天壽堂蔵梓の「項痢(ころり)流行記」の口絵。コレラ大流行で亡くなる人が続出し、江戸の火葬場は大混乱となった。

くすりの博物館 「厄はらひ」 野咲急画 安政5年(1858) (外部リンク)

コレラの流行に伴い 「忙しい人」と「ひまな人」を記し、忙しい人には火葬三昧場、早桶屋職人など、ひまな人に水道の水汲み、鰯売り、下し薬の看板、夜蕎麦商人などをあげている。厄はらいが八手のうちわで、厄病をはらおうといっている。

5 続く流行と政策(ときに迷走)

葬送としての火葬は1873(明治6)年に明治新政府の神道国教化政策によって仏葬であるがために、一度全面禁止されていました。地域によって状況は異なりますが、当時の東京府では翌1874(明治7)年に「墓地取扱規則」で、朱引内では今後埋葬を禁じること、朱印内では青山、雑司ヶ谷など新しく9 ヵ所の墓地を設けるのでそこに埋葬すること、朱印外の墓地は従来通り使用できることなどが定められ、墓地の整備を進めていこうとしていました。

しかし、たった2年後の1875(明治 8) 年、人口が増加し続ける東京で土葬を続けていくには当然限界があり、埋葬地の不足などから混乱が起き、火葬禁止は撤回せざるをえなくなりました。この時、火葬場の設置や火葬の方法について一定の取り決めはされました が、それほど厳しく定められたものではありませんでした。

6 「伝染病の死者は火葬にする」―伝染病予防法の制定

その後、1879(明治12)年には患者数16万人、死亡者10万人超の明治期最大規模のコレラが流行します。これを機に、「虎列刺(コレラ)病予防仮規則」や、翌1880年「伝染病予防規則」が定められました。この時「コレラ」「腸チフス」「赤痢」「ジフテリア」「発疹チフス」「痘瘡」が伝染病として指定され、土葬が盛んだった地域にも火葬場が設置されることになりました。この頃から伝染病の対策としての火葬が法的に定められていくことになります。

1884(明治17)年には「墓地及埋葬取締規則」によって墓地、火葬場ともに許可制になります。1888(明治21)年「伝染病予防取締規則」によって、コレラによる死者の遺体や寝具を消毒すること、コレラ、チフスの死体はなるべく火葬にすべきだが、もし遺族が強く土葬を希望するときには、埋葬穴は深さ3m以上、埋葬穴には塩化石灰(次亜塩素酸カルシウム。現在も殺菌・消毒剤として水泳プールなどで使用)を埋め、その厚さは棺の下部60センチ以上にすることなどが決められました。

1897年(明治30年)「伝染病予防法」が制定。伝染病による死者は火葬にすべきことが義務づけられ、もし火葬にしない場合は、「所轄警察官署ノ許可」が必要となり、伝染病患者の死体を土葬にした際その後3年以内は改葬できない、ことなど細部にわたって定められました。この法律の内容は、その後100年経って1998年に制定された現在の感染症法(「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」)に引き継がれています。

墓地や火葬については現在も厚生労働省の管轄であり、火葬と伝染病の流行、その対策はいまも切っても切れない関係にあります。

関連年表
1873(明治6) 火葬全面禁止
1875(明治8) 火葬禁止撤回
1877(明治10) 「虎列刺病予防法心得」
1879(明治12) コレラ明治最大規模の大流行(患者16万人、死亡者10万人超)
「虎列刺病予防仮規則」
1880(明治13) 「伝染病予防規則」
1882(明治14) コレラ流行(患者5万人、死亡者3万人超)
1883(明治16) ドイツの細菌学者ロベルト・コッホ、コレラ菌を発見
1884(明治17) 「墓地及埋葬取締規則」
1888(明治21) 「伝染病予防取締規則」
1890(明治23) コレラ流行(患者4万人、死亡者3万人超)
1897(明治30) 「伝染病予防法」
資料
「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」

(死体の移動制限等)
第三十条 都道府県知事は、一類感染症、二類感染症、三類感染症又は新型インフルエンザ等感染症の発生を予防し、又はそのまん延を防止するため必要があると認めるときは、当該感染症の病原体に汚染され、又は汚染された疑いがある死体の移動を制限し、又は禁止することができる
2 一類感染症、二類感染症、三類感染症又は新型インフルエンザ等感染症の病原体に汚染され、又は汚染された疑いがある死体は、火葬しなければならない。ただし、十分な消毒を行い、都道府県知事の許可を受けたときは、埋葬することができる。
3 一類感染症、二類感染症、三類感染症又は新型インフルエンザ等感染症の病原体に汚染され、又は汚染された疑いがある死体は、二十四時間以内に火葬し、又は埋葬することができる。

参考
  • 高橋敏『幕末狂乱 コレラがやって来た!』朝日新聞社 2005年11月
  • 日本建築学会編『弔う建築 終(つい)の空間としての火葬場』鹿島出版会 2009年6月
  • 谷畑美帆『骨と墓の考古学 大都市江戸の生活と病』角川文庫 2018年5月