1. 神道と仏教の関わり

神道は日本特有の宗教です。神道にはキリスト教のイエス、イスラム教のマホメット、仏教の釈迦のような教祖や開祖がいませんし、『聖書』や『コーラン』などの正典もありません。つまり、特定の象徴やよりどころをもたずに、自然崇拝や祖霊(先祖の霊)や土着の民俗といった、自然発生的ともいえる神々の観念に基づく信仰が神道の基盤です。仏教伝来以前より日本人の生活の中で大切にされてきた宗教です。

さて仏教が日本にやってきたのが6世紀半ばです。以降神道と仏教は、どちらかがとちらかに取り込まれてしまう、というようなこともなくバランスよく融和して日本人の宗教性を支えてきました。これを「神仏習合」と呼びます。

しかし、明治に入ると天皇を頂点とした神道を基盤にする近代国家が目指されたため、この新仏習合は明治新政府によって無理矢理に分離されます(神仏分離)。寺や仏像、経典を破壊する「廃仏毀釈」という黒い歴史が日本史に刻まれたのもこの時です。

2. 神道と仏教の死後観、霊魂観

神道は死を忌み嫌う

神道では、死を忌み嫌います。いまでも葬儀ができた家に神棚がある場合は半紙で封じますし、喪が明けるまでは神社の境内に入るべきでないとされています。地域のお祭りへの参加も憚られますし、お正月のお祝いの挨拶である年賀状も控えます。

死者の遺体を目の前にしたときに、私たちは愛惜と嫌悪という矛盾にさいなまれます。つまり、これまで大切に思っていた人への愛情や親しみがある反面、遺体に対する恐怖や嫌悪が私たちの中で共存してしまっているということです。これは日本人に限ったことではない、人類共通の情緒反応です。

死後の世界観の違いが、仏式葬儀の支持に

神道の中心的神様は天照大神(アマテラスオオミカミ)で、太陽を象徴します。それは古くから日本人が太陽を大切にしてきたこと、そしてその反動として太陽の光の届かない場所をおそれたことを意味します。実際に、『古事記』や『日本書紀』などで死者の行きつく他界は、黄泉国(よみのくに、よもつくに)、常闇国(とこやみのくに)、根の国(ねのくに)などの暗黒の世界でけがれた場所です。仏教の来世にきらびやかな極楽浄土があるのとはまさに正反対です。

神道では死を忌むべきものとしていたため、奈良時代に仏教が伝来してからというものの、日本では死者供養は仏教にゆだられたのです。仏教には「輪廻転生」や「浄土思想」などの死後観と、それに基づく教義や作法をすでに持ち合わせていたという強みもありました。

役割分担する神道と仏教

日本人は四十九日で仏(ホトケ)となり、三十三年で神(カミ)になると考えてきました。ここには、仏教と神道が手を取り合っている姿が、さらには中国の儒教や道教に見られる祖先崇拝の影響も見て取れます。外来の文化をハイブリッドする日本の民族性が、宗教の面でもよく表れている、いかにも日本人らしい特徴です。

仏教や神道という宗教を問わず、日本人は先祖を大切にする思想と文化を持っています。亡くなった人の霊は私たちのすぐそばにいる。初七日、四十九日、一周忌、三回忌と、時間をかけて何度も年忌供養をしていくことで、死の穢れは少しずつ浄化していくものだと考え、三十三回忌を経て供養は完成、祖霊はその村の氏神へと昇華していくのです。

そのことを示したのが日本民俗学の父である柳田国男でした。柳田は『先祖の話』の中でこうした日本人の宗教性を指すために「先祖教」ということばを用いたほどです。どのような宗教よりもご先祖さまを大事にする日本人について、本書の中でこのように記しています。

わたしがこの本の中で力を入れて説きたいと思ふ一つの点は、日本人の死後の観念、すなわち霊は永久に国土のうちに留まって、さう遠方へは行ってしまはないといふ信仰が、おそらくは世のはじめから、すくなくとも今日まで、可なり根強くまだ持ち続けられて居るといふことである。(柳田国男『先祖の話』)

そして、宗教学者の藤井正雄は、柳田の『先祖の話』を引用しながら、日本人の来世には「近い来世」と「遠い来世」があるとし、その距離を、時間が分かつものとしています。

新ボトケはこの現世とは近くの死者の国にいるだけに荒魂(あらみたま)であり、鎮魂を行うことがこの世に残されている人々の大事なつとめとなったのであり、仏教との習合が年忌追善の行事となったと考えられる。(藤井正雄「日本人の死生観と他界観」『神葬祭大辞典』所収)

近い来世とは死後間もない霊が集まるけがれの多い場所で、仏教による供養が求められた。そして時間をかけて浄化された祖霊は、清められた遠い来世に赴き、神道式の方法で祀られる。つまり、死者供養の役割を仏教と神道に分けたのです。子孫たちによる法要や供養によって魂が浄化され、33年経つと位牌を処分する習俗はいまでも見られます。また、「遠い来世」とはいっても、その場所は村のお山です。古い祖霊たちは高いところから私たちを見守ってくれているという信仰から、霊山やお山信仰が浸透し、山のふもとや中腹に神社が設けられているのです。

日本人の死生観は、仏教と神道が手を携えあってこそ成り立っているものです。私たちは神社に初詣に行き、お祭りでは神社に祀られる神様を神輿に担いで里を練り歩きます。この神社にいる神様こそが、私たちの古い古いご先祖様に他ならないのです。亡くなったばかりの死者の供養は仏教に、年月が経って浄化された祖霊は神道に。いまでもあたりまえのように併存する仏教のお寺と神道の神社は、このような役割分担で共存しているわけです。

3. 神式の葬儀も存在する

日本書紀にはイザナミノミコトの葬儀の模様がかかれています。古代においては、日本独自の葬送の儀礼が行われていました。しかし前章でみてきたように、奈良時代以降長らく、日本では仏教が葬儀を取り仕切ったわけです。

江戸時代に入ると幕府の寺請制度(てらうけせいど)により、仏教による死者供養はさらに強固になります。寺請制度とは、キリスト教を弾圧するためにキリシタンでないことを寺院に証明するための制度で、庶民は必ずどこかの寺院の檀家にならなければなりませんでした。神職であっても、一般の人と同じように菩提寺を持たなければならなかったほどです。

国学の隆盛と神式の葬儀

しかし、江戸時代も中期になると、本居宣長や平田篤胤らによる国学が隆盛し、日本古来の文化や精神性の基盤である神道が見直されるようになりました。神式の葬儀「神葬祭」の盛り上がりは仏教寺院にとっては死活問題で、両者は大きく対立しました。

国家神道が推した神葬祭

そして明治時代に入り、新政府が神道を基盤とした国家作りを進める中で、葬儀の在り方も神葬祭が推奨され、1872年に神葬祭専用墓地として青山霊園が開設されました。これがいまの都立青山霊園のはじまりです。さらに翌1873年には火葬が仏教の習俗に基づくものとして禁止し、新政府は葬儀や供養の神式化を推し進めます。しかし神葬祭は庶民たちにはうまく普及せず、また火葬の禁止によって土地不足や衛生面でもさまざまな問題が生じたため、1875年に火葬は解禁されます。

神葬祭運動の挫折と、第二次大戦後の神葬祭自由化

明治政府は、もともと江戸時代に敷かれていた寺請制度の機能を残したまま、信仰の対象を仏から神に移していくという青写真を描いていましたが、実際には長い時間をかけて民衆の中にしみこんだ仏教と祖霊崇拝の結びつきの強さを、強引に神道一色にするには無理があり、大きな反発を招きました。

加えて、近代国家の樹立のためには政教分離と信教の自由を国家の基本方針に盛り込むことが避けられず、政府は宗教政策の方針を大きく転換することとなり、「神道非宗教論」の立場をとります。政教分離の原則に従って神官は宗教行為である葬儀に関与できなくなり(ごく一部の神官に限定された)、神葬祭の普及は挫折に終わります。

そののち、第二次世界大戦後に神道が国家管理から離れて一宗教法人となったことにより、ようやくどの神官も葬儀に関わることが自由になったという背景があります。

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現在同じ家庭でも、慶事は神社、弔事はお寺、となりがちなのは、以上のような歴史背景によるところが大きいのです。

参考