天台宗の開祖、最澄(さいちょう)。真言宗の開祖、空海(くうかい)。平安仏教の2大巨頭であり、その後の日本仏教に決定的な影響を与えたこの二人。同じ時代を生きただけではなく、同じ遣唐使船で中国に渡ったというのですから、この2人の関係はなにやら因縁めいています。今回は最澄と空海のお話です。
最澄と空海
1 日本仏教の礎を築いたエリート、最澄
まずは7つ年上である最澄のご紹介から。最澄の何がすごいのか。それは、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗、日蓮の日蓮宗、など誰でも聞いたことがある名前・宗派だと思いますが、実はこれら現在も脈々と受け継がれている日本仏教の主だったものはすべて、最澄の開いた天台宗・比叡山から枝分かれしていったものなのです。まさに日本仏教の礎といえるでしょう。
さて767年、近江国(現在の滋賀県)の豪族に生まれた最澄は、幼名は広野(ひろの)といいました。12歳で近江の国分寺で修行、15歳で得度(出家のこと)し、このとき「最澄」の戒名を授かりました。18歳で東大寺(南都六宗の1つ。南都六宗は国家の庇護下にあった当時の仏教研究の中心)にて授戒(仏教の戒律を授かること)します。
その後、12年も渡り比叡山にこもり修行に励む時期が訪れますがそこで最澄は『法華経』に出会います(法華経は仏教経典の中でも最も重要な経典の1つ。詳しくはこちら)。法華経の神髄に基づいて中国で天台宗を開いた智顗(ちぎ:538-597)の教えに傾倒していきますが、そんな最澄の評判を耳にした桓武天皇は最澄を内供奉(天皇のそばで祈願を講じる役)に任じます。
いよいよ35歳の頃、日本においての天台宗の開宗を国により認められ、国費留学生として遣唐使に選ばれます。本格的な天台教学を学びに唐に渡りました。天台山に登り多くの経典を入手するなど精力的な唐での活動を経て、翌年帰国。その後、比叡山延暦寺を総本山・拠点とし、法華経を中心とした思想や大乗仏教の思想を広めることに多くの力を注ぎました。
なおかつ天台宗は、中国天台宗や法華経だけでなく、密教、禅、念仏など広く大きく仏教の様々な教義が学べるところであり、日本における総合仏教大学の役目を果たしていたというのがミソです。その懐の深さが、のちに鎌倉新仏教と呼ばれる日本仏教の高僧たち(つまりさきの法然、親鸞、栄西、道元、日蓮など)を数多く輩出することにつながったのでしょう。
最澄は、これまでの戒律(仏道に入門するための規則)と比べて比較的ゆるやかな「大乗戒壇院」の建立を目指します。これは法華経の根本的な思想である「人は誰でも等しく仏になれる」という教えを日本の仏教界の中でも実現するためだったと言われています。
しかし、最澄の目指した大乗戒壇院は、それまでの伝統的な戒律に反していたことから、奈良を中心に栄えていた南都六宗と対立を深めます。生きている内に大乗戒壇院を建立することこそが最澄の悲願でしたが、実現したのは最澄の死後7日目のことでした。それでもこのことを契機に、それまでの国家主導のエリート官僚の世界であった仏教界は次第に独立性を高め、その後数々の宗派が花ひらいていくことになります。最澄の大乗戒への想いが、鎌倉時代をはじめとする後世の繁栄に一役買ったわけなのです。
最澄の死後、866年に清和天皇より「伝教大師」の諡号を贈られます。これは日本で最初の大師号です。
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2 無名僧侶からの叩き上げの天才、空海
最澄に遅れること7年後の774年、讃岐国(現在の香川県)の郡司(地方の役人)の家に生まれた空海は、幼名を佐伯真魚(さえきまお)と言いました。神童とされるほどに利発だった真魚には一族の期待がかかり、15歳で京に上って儒教を学び、18歳で大学入学という、当時の地方豪族の子としては異例な出世を果たしていきます。
しかし、当時の大学には貴族の子たちの出世主義が横行しており、19歳で大学を離れ、仏門に進み、吉野や四国の野山で修業に励みます。そして、室戸岬から太平洋に向き合いながら虚空蔵菩薩の真言を1日に1万遍称えるという「虚空蔵求聞持法」という修行をしていた時に、口の中に明星が飛び込んでくるという神秘体験をし、真魚は悟りを開きました。その時に目に飛び込んできたのが空と海しかない光景から、自身を「空海」と名乗りだしたのです。
24歳からの7年間は詳しい足跡があまり知られていませんが、空海31歳の時に遣唐使(804)として唐に渡ります。最澄が国に認められた留学僧であったのに対し、空海は在野の僧侶でした。エリートの最澄と叩き上げの空海。日本仏教史上最大のライバルたちはここではじめて相まみえるのです。
真言密教の神髄を知りたく唐に渡った空海は、密教の正当な後継者である恵果(けいか)を訪ねます。恵果は、一目で見ただけで空海を正当後継者に選び、「伝法灌頂」を執り行い、法を授けます。帰国後は、空海の名声はぐんぐん高まり、天皇の側で鎮護国家の法会を任され、高野山や教王護国寺(東寺)などさまざまな真言密教の道場を建立。さらには諸国を巡って橋梁、ため池などの治水工事や貧民救済など、さまざまな社会事業に尽力します。
835年、62歳で息を引き取りますが高野山では永遠の瞑想に入ったと考えられ(入定:にゅうじゅう)、いまでも日本中から厚い信仰を集めています。
なお、921年には醍醐天皇より「弘法大師」の諡号が贈られています。大師号は空海以外にも最澄やさまざまな高僧が授かっていますが、俗に「お大師さん」と言えば弘法大師のことを指し、空海がいかに人々から愛されているかが分かります。
空海についてさらに詳しく知りたい方はこちらをご参照下さい。
>>真言宗ってどんな宗派?
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3 比叡山の宗祖でありながら、空海に弟子入りした最澄
同じ遣唐使として唐に渡った2人。最澄がエリート僧としての道を歩んでいたのに対し、空海は叩き上げの僧侶でした。最澄が国費留学生として唐に渡ったのに対し、空海が私費による留学生だったことを見ても明らかです。
入唐の目的はそれぞれ異なりました。最澄は法華経を基盤にする天台教学を、一方空海は密教を学ぶことが目的でした。最澄は法華経以外にも、禅や念仏などさまざまな教えを学びましたが、その中に密教も含まれていました。ただし、最澄の学んだ密教は「雑密」と呼ばれ、いわゆる傍系のものでした。正当な密教のことを「純密」と呼ぶのですが、こちらを学んで持ち帰ったのがまさに空海だったのです。
このような経緯を経て唐から日本に帰国したのち、最澄と空海の立場は逆転します。桓武天皇が崩御したことにより最澄は最大の外護者を失います。と同時に都では天台教学よりも密教がもてはやされるようになるのです。最澄は密教や禅や、おびただしい数の経典を日本に持ち帰りますが、密教に関しては空海が正統後継者として帰国します。
自身の密教の不完全さを認識した最澄は、天台宗の開祖という立場でありながら、空海に弟子入りを志願します。7歳年上で、しかもずっと当時の仏教界をリードしていた最澄が、叩き上げの学僧に過ぎない空海に弟子入りすることに、周囲は驚きました。天台宗の中では反発もあったようですが、ここに最澄の人柄や、仏教に対する真摯な姿勢が見て取れます。なんという謙虚さ。真の賢者とはかくやあらん。
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4 交流から絶交へ
空海と最澄の交流は師匠と弟子という形で続きますが、ある時を境に疎遠になっていきます。ひとつは、最澄が空海に『理趣釈経(りしゅしゃくきょう)』という経典を貸して欲しいと申し出たのに対し空海がそれを断ったため。もうひとつは最澄の弟子の泰範が空海の元に修行に行ったまま帰ってこず、そのまま空海の弟子になったことが挙げられます。
晩年の最澄は、奈良仏教の論客との理論闘争に明け暮れてしまうのに対し、空海は奈良仏教の僧たちとも交流をしていました。高野山や教王護国寺などの密教修養道場や教育の場を次々に建立、さらには治水事業や貧民救済などの社会事業も行っていきます。晩年は最澄よりも空海の方が活躍の輝きを増しているように見えます。
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5 ふたりの死後の日本仏教の展開
ただしふたりの死後、天台宗と真言宗の歩みは異なる姿を見せます。天台宗からは、さきほども触れたように数々の名僧が輩出され、いまの時代にも息づいている宗派(浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗など)がたくさん生まれますが、真言宗からは天台宗のような発展は見られません。これにはいくつかの理由が挙げられます。
まず、天台宗が密教と顕教の両方を大切にしたのに対し、真言宗が密教の優位性を説いたこと(密教と顕教については、「天台宗ってどんな宗派?」または「真言宗ってどんな宗派?」をご参考に)。外に開かれた顕教では仏法を言語化した経典があるからこそ、時代を超えて多くの人々に影響を与えることができます。それに対し、密教である真言宗は言語化しづらい呪術的な要素が強く、また教えの承継も師匠と弟子との間で直接的に行われました。そもそもの性格が閉鎖的だった真言宗は、宗派を超えた広がりという様相はみせにくかったものと思われます。
また、最澄が天台教学をまとめあげる途上で亡くなっていったのに対し、空海は生前にあまりにも完璧な思想体系を作り上げていた点も見逃せません。だからこそ天台宗では後世の僧侶たちが最澄の思想の未完成の部分を補う形で、新しい展開を見せていったともいえます。
後世にさまざまな高僧を輩出した天台宗の開祖の最澄。強烈なカリスマでいまでも仏教界のスーパースターとして人気の空海。それぞれが日本仏教の歴史に君臨しながら、その教えは今なお生き生きと輝き、信仰を集めています。
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