1. 曹洞宗ってどんな宗派

曹洞宗とは、日本の主要仏教宗派のうちのひとつです。禅を重んじる教えであるため、臨済宗とともに「禅宗」として括られます。もともとは、中国で生まれた宗派で、中国禅宗五家(中国における禅宗の5つの流派。曹洞宗、臨済宗、潙仰宗、雲門宗、法眼宗がある)の中の一流派でした。これを鎌倉時代に日本に持ち帰ったのが道元(どうげん)で、のちに日本中に曹洞宗を広めたのが瑩山(けいさん)です。曹洞宗ではいまでは全国に約15,000もの寺院があり、これは諸宗派の中でもっとも多い寺院数を誇ります。さらには約800万人もの檀信徒を擁し、多くの信仰を集めています。

1-1. 2人の宗祖と2つの大本山

曹洞宗は、開宗以来分派することなく単一宗派を守り抜いているのですが、2人の宗祖と2つの大本山があります。こうした例は他の宗派では見られないことです。

2人の宗祖

宗祖とは本来はその宗派を始めた人のことですが、曹洞宗の場合、先にあげたように、中国から日本に曹洞宗を持ち帰った道元と、道元から4代目にあたる瑩山が、宗祖として敬われています。瑩山は諸国を遍歴して庶民に禅の教えを説いて回り、曹洞宗を大きく飛躍させました。

曹洞宗には「一仏両祖」という言葉があり、「一仏」は釈迦如来、「両祖」は道元と瑩山のことを指します。2人には「高祖」と「太祖」という特別な尊称がつけられており、高祖道元は曹洞宗の父、太祖瑩山は曹洞宗の母に例えられています。道元と瑩山についてはあとの章で詳しく解説いたします。

2つの大本山

そして曹洞宗の本山は「両大本山」と呼ばれ、大本山寺院が2つあります。ひとつは福井県の永平寺、もうひとつは横浜市の総持寺です。永平寺は道元が開いた曹洞宗発祥の地です。

実は、はじめに大本山として認定されたのは永平寺でなく総持寺でした。これは、開祖である道元自身が、仏法を広めるために教団を組織することを否定していたのに対し、4代目の瑩山の時に、曹洞宗が飛躍的に発展し「曹洞宗」という公称を用い始めるようになったからです。

当時石川県にあった総持寺は、もともと真言律宗の寺院だったものを瑩山が譲り受けて禅道場としたものでしたが、やがて時の権力者である後醍醐天皇に曹洞宗の大本山として認定されます。その後時代が下り、江戸幕府が永平寺をも大本山として認定することで、曹洞宗では「両大本山」が生まれます。なお、総持寺は明治時代に火災に遭い、石川県から現在の横浜の地へ移転されました。

ちなみに曹洞宗の管長(宗派の長)は2年ごとに交代しますが、永平寺の住職と総持寺の住職が交互に務めます。これも、他の宗派には見られない独特な方法です。

1-2. 曹洞宗の本尊

曹洞宗では「一仏両祖」、つまりお釈迦様、道元、瑩山の教えを信じることを大切にしています。ただし原則として手を合わすべき特定の本尊というものを定めていません。これは、同じ禅宗の臨済宗も同じで、特定の仏さまを礼拝するよりも、お釈迦様の悟りの体験を自分自身の中に求めることを重視しているからです。

そのため各寺院の本堂に釈迦如来が祀られているところは多いのですが、決してこればかりではありません。曹洞宗が日本中に広まっていく中で、もともとあった仏教寺院が曹洞宗に改宗した例も多く、このような場合ではそのお寺で祀られていたもとの仏さまをそのまま本尊にしているところもあります。

1-3. よく読まれる経典

曹洞宗の基本経典には、道元がまとめた『正法眼蔵』がまず挙げられます。31歳から執筆を始めて1253年、54歳で亡くなるまでの23年間かけてついに未完のまま終えられた仏教思想書で、その数は87巻にも及びます。

その他、在家信者向けに『正法眼蔵』がわかりやすくまとめられた『修証義』があります。1890年(明治23年)に新しい時代の風潮に合わせた布教が必要だということから作られました。その歴史はまだ浅いのですが、日常的な経典としてお寺や各家庭でも読み上げられています。

また、『般若心経』はさまざまな宗派でも読まれていますが、曹洞宗でも大切なお経とされています。

2. 曹洞宗の教えの特徴

曹洞宗は禅宗の1つです。「禅」というとみなさんのイメージでは、じっと座禅を組んだり、ぞうきん掛けや掃き掃除などに取り組む姿が目に浮かぶのではないでしょうか。そのような修行の姿の中には、どのような教えが込められているのでしょうか。

2-1. 只管打坐(しかんだざ)

「只管打坐」とは、ただひたすら座禅をすることです。悟りのためでも、修行のためでもなく、何も考えずにただひたすら座ることを説きます。座禅をするときには結跏趺坐(けっかふざ:両足を交差させて甲を太ももの上に乗せること)をするのですが、痛みをともないます。そうした痛みや迷いや目的など、一切の束縛から脱する境地こそが悟りそのものなのです。言い換えれば、悟りのために座るのではなく、座ることが悟り、なのかもしれません。

2-2. 行住座臥(ぎょうじゅうざが)

「行住座臥」とは、歩く(行)、止まる(住)、座る(座)、寝る(臥)、日常生活の中あらゆるふるまいのことです。修行は座禅だけに限りません。曹洞宗では普段の日常生活のひとつひとつもすべてを修行と捉えます。生活のひとつひとつに祈りや心を込めて、安らかでおだやかな日々を送ることが仏の姿であるならば、私たちの普段の仕事や家事もまた、修行の姿なのだと言えるでしょう。

2-3. 臨済宗との違い

「看話禅(かんなぜん)」と「黙照禅(もくしょうぜん)」

曹洞宗とならんで、日本を代表する禅宗であるのが臨済宗です。臨済宗の禅はとくに「看話禅」(かんなぜん)と呼びます。看話とは公案(こうあん)、つまり禅問答のことで、臨済宗では公案と座禅のそれぞれを大切に考えます。つまり、座ることと考えることの双方から仏心を求めるのです。

これに対して曹洞宗の禅は「黙照禅」(もくしょうぜん)と呼びます。さきほどの「只管打坐」の章でも述べたように、座禅、つまりただひたすら座ることを大切にしています。座禅をして悟りを開いたお釈迦様や、禅宗の開祖である達磨大師のように、「座る姿=悟りの姿」と考えているからなのでしょう。

つまり、公案と座禅とで悟りに近づくのが臨済宗、座禅のみにより悟りの姿を愚直に実践する曹洞宗、という違いです。

「臨済将軍」と「曹洞土民」

臨済宗と曹洞宗を比較する言葉に「臨済将軍」と「曹洞土民」という言葉があります。臨済宗は将軍や武家などの特権階級に広まったのに対し、曹洞宗は下級武士や農民や承認などの庶民(=土民)たちの間に広まったためにこのような呼ばれ方がされています。信者の基盤が違ったわけです。

臨済宗は時の権力者に近づいて禅文化を花開かせました。曹洞宗は日本中の庶民たちへの布教に努めましたが、ただ禅の教えを説くだけではなく、当時庶民たちの間で広まっていた密教や民間信仰もうまく取り入れることで飛躍的に教勢を伸ばしました。これは瑩山の功績が大きく、こうして彼により現在15,000もの寺院を抱える大宗団への礎が築かれたのです。

こちらの記事もCHECK!

3. 曹洞宗の両祖 道元と瑩山

曹洞宗を中国から持ち帰り日本で開いた道元。そして曹洞宗を日本中に広めた瑩山。高祖と太祖の「両祖」として祀られる2人の半生と功績を見ていきましょう。

3-1. 日本曹洞宗の開祖 高祖道元

幼少期

道元は、1200年、鎌倉初期に公卿の家の子として生まれました。しかし、3歳で父を、8歳で母を失ったことから世の無常を憂い、13歳で出家します。当時は仏教を学ぶ場所と言えば比叡山の延暦寺で、道元も比叡山で修行します。当時の天台宗は堕落して世俗化していたため、わずか2年で下山。京都の建仁寺で栄西が宋から持ち帰った臨済禅を学びます。

中国での5年間

24歳の時、臨済宗の開祖栄西の弟子の明全とともに宋に渡り、中国国内で遍歴の旅に出ます。約2年の遍歴の末に出会ったのが、中国曹洞宗の禅僧である如浄です。当時の中国でも仏教の世俗化が進んでいた中、如浄は名利や権勢を避けて古風な禅の修行を貫き、その姿にこそ道元は理想を見出したと言われています。のちの道元が、かつて京都にばかり建てられた各宗派の本山寺院と異なり、修行道場の場所として雪の深い福井県の山の中(現在の永平寺)を選んだのは、この如浄の影響が大きいものと思われます。

帰国後

宋から帰国した道元はすぐに『普勧坐禅儀』を書き、自分が伝える座禅の教えこそが、釈迦から伝わる真実の仏法だとします。出家や在家、男性や女性の差を問わずに布教を宣言し、修行道場として京都深草に興聖寺を開きます。当時は比叡山延暦寺の勢いがすさまじく、天台宗や真言宗との”兼修”という形でこそ禅の教化が認められていましたが、道元は兼修という妥協を拒み、純粋な禅のみを教えました。信者が増えるに従って比叡山や他宗の弾圧が激しくなり、道元は京都を離れ、福井の山の深い場所に大仏寺(のちの永平寺)を開き、54歳で息を引き取るまでひたすら厳しい修行を貫いたのでした。

3-2. 曹洞宗を広めた中興の祖 太祖瑩山

純粋孤高に禅の修行を努めた道元。世俗を嫌い、深山幽谷に禅道場を開いて生涯を終える姿に道元の純化された思想を見ることができますが、この日本曹洞宗の禅を庶民に広く伝えたのが、瑩山です。

瑩山は、道元の死後15年にあたる1268年、福井県の豪族の子として生まれ、8歳の時に永平寺で出家します。当時の永平寺は宗内の対立(三代相論:保守派と改革派の対立)で騒がしく、19歳で永平寺を出て諸国を遍歴します。これまで曹洞禅しか知らなかった瑩山はこの旅の中で密教や修験道を学び、やがて禅の教えの中に織り交ぜていきます。

密教や修験道は、加持祈祷や祭礼などの民間信仰とも親和性が高く、当時庶民の間で広まっていたこれらの習俗を瑩山以降の曹洞宗は柔軟に受け入れたことから、爆発的に信者を増やしていきます。さらには当時としては常識的ではなかった女性の住職登用も積極的に行ったのです。教団を発展させるために他宗の教えや民衆の想いを積極的に受け入れる柔軟性があり、このあたりが道元にはない、瑩山の評価されている点です。

現在約15,000にも及ぶ曹洞宗の寺院。その内の約8割は瑩山が建てた総持寺系だと言われており、瑩山の功績は現代にもなお大きな影響を与えています。

4. 曹洞宗の仏壇仏具・法要マナーなど

4-1. 曹洞宗の仏壇

先にも述べた様に曹洞宗では寺院に祀られる特定の本尊を定めていませんが、お仏壇では一仏両祖、つまり中央に釈迦如来を、右に承陽大師(高祖道元)、左に常済大師(太祖瑩山)を祀ります。

曹洞宗の仏壇は、木目を活かした「唐木仏壇」が用いられることが多いようですが、最近では宗派の様式にとらわれない家具調仏壇や、コンパクトなサイズのモダンな仏壇もよく選ばれています。

4-2. 曹洞宗の戒名・位牌

曹洞宗の戒名は冠字として「空」や「◯(円相)」を置きます。そして戒名は上から順番に院号・道号・戒名・位号です。

(男性)◯◯院◆◆△△●●居士
(女性)◯◯院◆◆△△●●大姉

4-3. 曹洞宗の数珠は

曹洞宗の本式の数珠は、108個の主玉が連なる看経(かんきん)念珠です。看経(かんきん)念珠は臨済宗でも用いますが、銀の輪がないのが臨済宗、ついているのが曹洞宗です。

4-4. 曹洞宗のお焼香

曹洞宗では、焼香は2回が一般的です。1回目を主香(しゅこう)といい、故人さまのご冥福を祈ってお香を落とします。この時、左手を右手の下に添えます。2回目は従香(じゅうこう)といい、1回目の主香が消えないように香を加えます。

-------
曹洞宗では、座禅つまりは「ただ座ること」を説きます。仕事や家事、介護や子育てなど、毎日の生活を忙しく過ごしている私たちには、なかなか敷居が高いように思われるかもしれません。「ただ座る」とは、ある意味でとても贅沢なことです。時間を落ち着けてじっと座る余裕なんて、なかなかありませんよね。

しかし、曹洞宗の教えのすばらしいところは、行住座臥のすべての営みもまた、修行の姿であると説いている点です。料理も、掃除も、洗濯も、仕事も、それらひとつひとつの行いにも、祈りや想いを込めて取り組むことで、もはやそれ自体が修行なのです。さらにその先にまわりの人の喜びが生まれるのなら、それこそが仏の姿なのだと言っているのです。

曹洞宗の寺院は15,000にも及びます。あなたの家のそばにもきっとあるはずです。もしも坐禅会を催しているところがあれば、ぜひ一度参禅してみてはいかがでしょうか。そして、坐禅を終えて今一度自分たちの毎日の生活を振り返ると、当たり前に過ごす忙しい日々のひとつひとつが、とてもありがたいものとして浮かび上がってくるかもしれません。