天台宗ってどんな宗派?

「日本仏教の母山」と呼ばれる比叡山延暦寺を本山とするのが天台宗です。開宗から1200年を過ぎた今でも脈々と受け継がれています。天台宗は日本仏教の礎としての役割をも果たしています。というのも、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮などの、日本の主要仏教宗派の始祖たちはみな元は天台宗の比叡山で修行を積み、のちに独自の宗派を打ち立てていったのです。しかもそれらの宗派が現代まで生き続けていることを考えると、天台宗の日本社会に対しての影響がいかに絶大かが分かります。この記事では、そんな天台宗について分かりやすく解説いたします。

index 目次
  1. 1. 天台宗ってどんな宗派
  2. 2. 天台宗の教えと特徴
    1. 2-1. 法華一乗 ―教えの根本は法華経
    2. 2-2. 四宗融合 ―さまざまな修法を法華経のもとで統合する
    3. 2-3. 厳しい修行 ―四種三昧と千日回峰行
    4. 2-4. 台密 ―密教としての天台宗
    5. 2-5. 最澄 ―日本における大乗仏教の始まり
    6. 2-6. 大乗戒独立運動 ―大乗仏教による新たな戒壇
    7. 2-7. 鎌倉新仏教 ―比叡山から巣立ったニューウェイブたち
  3. 3. 名僧とたどる天台宗の歴史
    1. 3-1. 智顗(538-598) ―中国天台宗の祖
    2. 3-2. 最澄(767-822) ―天台宗を日本へもたらす
    3. 3-3. 円仁(794-864)・円珍(814-891)・安然(841-915)  ―天台密教の確立
    4. 3-4. 良源(912-985 )・源信( 942-1017)  ―天台宗中興の祖
    5. 3-5. 山法師による武装化(平安時代後期-戦国時代)
    6. 3-6. 天海( 1536-1643)  ―徳川三代の信任厚くも謎も多い怪僧
  4. 4. 天台宗の仏壇仏具・法要マナーなど
    1. 4-1. 天台宗の仏壇
    2. 4-2. 天台宗の戒名・位牌
    3. 4-3. 天台宗の数珠は
    4. 4-4. 天台宗のお焼香は

1 天台宗ってどんな宗派

天台宗は、日本を代表する仏教宗派のうちのひとつです。もともとは中国で始まった大乗仏教(これについては後述します)の宗派で、隋の時代の中国の僧侶・智顗(ちぎ)が開いたとされています。日本で天台宗を開いたのは最澄(767-822)で、本山は滋賀県にある比叡山延暦寺です。

天台宗の「天台」とは、中国浙江省にある天台山に由来します。天台山には古来より、仏僧や神仙や道士が多く住んでおり、晩年の智顗も天台山にこもって天台教学を確立します。

寺院や仏壇に祀る本尊は、阿弥陀如来や釈迦如来や薬師如来や観世音菩薩などさまざまで、特定の本尊を規定していません。これは、天台宗が法華経、密教、禅、念仏など、さまざまな教義を取り入れた総合仏教的な要素があるためです。現在の日本国内での天台宗系の寺院数は4,505、信者数が約297万人(平成30年度『宗教年鑑』)です。

総合仏教ゆえ、多くの僧侶が比叡山で修行をし、現代まで続く鎌倉新仏教(浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗)の開花に一役買ったことは大きく評価されています。比叡山で修行した僧侶に、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮らがいますが、それぞれが独自の教理を打ち立てそれぞれの宗派を作り、以降現代にいたるまでたくさんの信仰を集めています。

2 天台宗の教えと特徴

まずは、天台宗がどのような教えや特徴を持った宗派なのかをご説明いたします。

2-1 法華一乗 ―教えの根本は法華経

天台宗の教えの根本は『法華経』です。『天台宗宗憲』(宗派における憲法のようなもの)の中には、「法華一条の教えを根本とし」(第4条)と記してあります。『法華経』にはすべての人は平等に仏になれると説かれており、仏になるためのさまざまな教えを包括したのが法華経です。天台宗で法華経を教えの根本とすることを「法華一乗思想」と呼びます。

法華経そのものは紀元前1世紀頃に思想が形成され、紀元前後に文章化されたものと考えられています。インドをはじめとする東アジアに広く流布した法華経は、チベット、ウイグル、モンゴル、満州、朝鮮などの各言語に翻訳されています。中国天台宗の開祖である智顗は、法華経を最重要経典としました。それを日本に持ち帰ったのが最澄です。最澄は天台宗のことを自ら「天台法華宗」と名付けていたほどです。

法華経は「諸経の王」とも呼ばれています。法華経の前半では、「誰もが平等に仏になれる」と説かれ、後半では、釈迦はこの世に実在した一個人ではなく、永遠性を帯びた「久遠実成(くおんじつじょう」の仏である、ということが説かれています。出家者のための仏教ではなく、衆生(すべての生き物)救済のための仏教=大乗仏教が北東アジアに広がっていくのに、この『法華経』の教えは、なくてはならないものでした。

2-2 四宗融合 ―さまざまな修法を法華経のもとで統合する

『天台宗宗憲』の第5条には「円教、密教、禅法、戒法、念仏等いずれも法華一乗の教意をもって融合し、これを実践する」と書かれています。仏になるためにはさまざまな方法がありますが、それらの優劣をつけるのではなく、法華経の精神で統合しようとしたのです。ちなみに、天台宗の教えは5つの教えから成り立ちます。円・密・禅・戒・念です。この5つは次のように分かりやすく言い換えられるでしょう。

  • 円=法華経の教え
  • 密=密教(秘密仏教の略称で加持祈祷を重んじる)
  • 禅=坐禅
  • 戒=梵網経による授戒
  • 念=念仏

これらを統合することを「四宗融合思想」と呼びます。密教(密)、坐禅(禅)、戒律(戒)、念仏(念)という全く異なる4つの修法を、法華経(円)のもとで統合する。天台宗が「総合仏教大学」と呼ばれるゆえんでしょう。

2-3 厳しい修行 ―四種三昧と千日回峰行

山岳仏教である天台宗の修行は厳しいことで有名です。智顗は天台山で、最澄は比叡山で、それぞれ弟子たちに天台宗の教えを説きました。

最高の経典である法華経の教えをただ頭で学ぶ(教門)のではなく、どのように体得するか(観門)。智顗はこの教門と観門の両方こそが大切だとし、その教えは最澄に受け継がれています。また智顗は、悟りを開くための修行を「禅」とは呼ばずに「止観」と呼び、日常生活こそが止観の実践の場と説きました。止観の修行法は4つに分けられておりこれを「四種三昧」と呼びます。

  • 常坐三昧=静かなところで座禅を続ける修行
  • 常行三枚=阿弥陀仏の念仏を称え、心に阿弥陀仏の姿を思い描く修行。念仏三昧とも言う
  • 半行半坐三昧=法華経を読みながら五体投地をする
  • 非行非坐三昧=毎日の生活そのものを修行とするもの

また、天台宗の厳しい修行に「千日回峰行」があります。比叡山の険しい山内を7年に分けて1000日巡拝します。その間には最も過酷と言われる「堂入り」も行われ、9日間の断食・断水・断眠・断臥の四無行が行われ、途中で修行が続けられなくなったら自害をし、そのための短剣や埋葬料の10万円を携行するほどです。

2-4 台密 ―密教としての天台宗

顕教(けんきょう)と密教(みっきょう)という言葉があります。顕教とは「顕(あらわ)される教え」、つまりお釈迦様の教えを誰もが分かりやすく理解できるように文字や言葉で表すことを指します。

一方の密教とは「秘密の教え」と書きます。つまり、真理そのものとしての仏をどう感じるか、体得するか。それは言葉などで言い表せるものではないため、師匠から弟子へと厳格なルールのもと教えや作法が伝えられます。言語化しづらく、限定された場所でしか受け継がれないことから、「密教」と呼ばれているのです。

日本における密教は天台宗と真言宗のふたつの系統があります。天台宗の密教は「台密」と呼ばれます。真言宗は京都の東寺を拠点に密教の教えを広めたことから「東密」と呼ばれます。当初、台密は東密の遅れをとっていたと言われていますが、最澄の弟子である円仁や円珍、さらには後年の安然らによって台密は発展・完成していきます。円仁や円珍、安然の活躍については後述します。

2-5 最澄 ―日本における大乗仏教の始まり

法華経にはすべての人は平等に仏になれると書かれており、この教えを日本で説いたのが最澄でした。しかし、こうした最澄の教えは奈良時代にはじまる仏教教団(南都六宗)からは大きな反発を買います。これには、天台宗がとる「大乗」と、南都六宗がとる「小乗」というそれぞれの仏教に対する基本的な考え方の相違があるからです。両者は分かりやすく次のように言い換えられます。

  • 大乗仏教:誰もが悟りを開くことができ、あらゆる者を救おうとする仏教
  • 小乗仏教:仏道に進むためには出家しなければならず、修行者本人が救われるための仏教

出家者しか悟りに達することができないとした南都六宗などそれ以前の仏教(=小乗仏教)への批判から始まったのが大乗仏教なのです。古代仏教の学問機関としての要素の強かった奈良を中心とした南都六宗では、先天的に仏になれる人間となれない人間がいるとしたのに対し、後発で最澄が開いた天台宗では、誰もが仏になれるとされました。

どちらが正しいか、優劣があるか、それは簡単には論じられません。小乗思想を現実的、大乗思想を理想的と言う人もいます。最澄が晩年に明け暮れた法相宗の僧侶・徳一(小乗仏教)との論争は仏教界では有名です。論争自体に決着は見られませんでしたが、これ以降日本の仏教は「大乗化」していくのです。

2-6 大乗戒独立運動 ―大乗仏教による新たな戒壇

仏教では、出家するためには、仏教者が守るべき決まりや規則である「戒律」を授からなければなりません。戒律を授かることを「授戒」と呼び、授戒するともらえる名前がみなさんご存知の「戒名」です。そして、授戒を行う場所を「戒壇」と呼びます。最澄は、大乗仏教のための戒壇の実現に心血をそそぎました。

当時は奈良の東大寺、下野の薬師寺、太宰府の観世音寺の「天下の三戒壇」と呼ばれる、奈良時代に創建された三ヶ寺でしか授戒は認められていませんでした(認可するのは天皇)。つまり「戒壇」はそれらに限られており、そこで授けられる戒律も、大乗仏教以前の「四分律」と呼ばれるもので、大変厳しいものでした。

これに対して最澄は、比較的内容のゆるやかな戒律である「大乗戒」と、それを授ける戒壇を比叡山に設立することを主張したのです。それまでの戒律、四分律には250もの戒があると言われ、内容も大変に厳格で細かく規定されていました。対して最澄が主張した大乗戒は、10の重い戒と48の軽い戒という、数も少なく内容も比較的ゆるやかなものでした。これからの仏教者は世俗社会の中に入っていきそこで役に立たなければならないという最澄なりの信念によると言われています。

ただ、比叡山に新たな戒壇を作るということは、奈良の旧仏教から完全に独立して僧侶を養成するということを意味します。しかも厳格さがかなり緩和されていることから、南都仏教からは猛烈な反発し、最澄を批判しました。

大乗戒は、戒壇の権威性の失墜の原因になったと言われる反面、鎌倉新仏教の素地を作っていくきっかけにもなりました。最澄はあくまでも、法華経の平等思想を推し進めようとし、広く衆生のためになる仏教の実現のために尽力したのです。

2-7 鎌倉新仏教 ―比叡山から巣立ったニューウェイブたち

これまで挙げたように、天台宗は法華経の教えを根本とし、円・密・禅・戒・念などのさまざまな修法を総合的に包括しています。「修行者自身の悟りのための仏教」ではなく、「人々を救うための仏教」の実践に努めました。後世のさまざまな修行者は比叡山に登って修行をし、その中からさまざまな高僧が現れ、独自の教えを携えて人々の救済に尽力しました。

はじめにも触れましたが、天台宗・比叡山からはその後、後世に名を残すさまざまな高僧がいわばニューウェイブとして次々と登場しています。浄土思想を広めた良忍(融通念仏宗)、法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、一遍(時宗)。禅宗という新たな流派を広めた栄西(臨済宗)や道元(曹洞宗)。そして法華経の教えをさらに特化して衆生救済に尽力した日蓮(日蓮宗)です。これらの僧が開いた宗派は鎌倉新仏教と呼ばれています。

3 名僧とたどる天台宗の歴史

天台宗は、どのような歴史を経て、現代にも息づく仏教宗派となったのでしょうか。天台宗の歴史を、宗派を代表する名僧たちとともにひもといてみましょう。

3-1 智顗(538-598) ―中国天台宗の祖

天台宗はもともと中国で始まった大乗仏教の宗派です。隋の時代の中国の僧侶・智顗(ちぎ)(538-598)が開祖とされています。日本の時代でいうと聖徳太子の頃。智顗は上海の北部にある天台山にこもって、悟りへの実践方法を確立し、隋王朝の2代皇帝煬帝の帰依を受けたほどです。

智顗は日本に仏教が伝来した538年に生まれ、60年の生涯の間、35にも及ぶの寺院を建立し、4,000人もの人々を得度させたといわれています。インドから中国へ伝えられた膨大な数の経典や仏典をのすべてを精査した上で、法華経こそがあらゆる人々を救うことができる最重要経典だとし、法華経を中心とした天台教学を打ち立てました。

智顗の教えは法華三大部『法華玄義(ほっけげんぎ)』『法華文句(ほっけもんぐ)』『摩訶止観(まかしかん)』という本にまとめられています。これらの仏典は今でも日本の多くの仏教教団に深い影響を与え、『摩訶止観』は禅宗の宗派でも重要経典とされています。

また智顗は「天台大師」の諡号を、当時の隋王朝の皇帝・煬帝から授かっており、天台宗では、高祖天台大師として、仏壇の右側に祀って礼拝の対象とします。

3-2 最澄(767-822) ―天台宗を日本へもたらす

最澄(767-822)は、766年に現在の滋賀県大津市に生まれます。幼名は「広野」。幼い頃から才覚を発揮して、12歳の時に近江国分寺にて出家。15歳で授戒、名前を最澄としました。

20歳の時に東大寺戒壇院で具足戒二五〇条を受けて僧侶となり、比叡山に登り、修行に臨みます。12年にも及ぶ修行の中で、法華経に基づいた中国天台宗に出会い、傾倒します。その後、現在の根本中堂(延暦寺の総本堂)の原型となる一乗止観院などのさまざまな堂舎や僧房を建て、桓武天皇の内供奉(天皇の安泰を祈願する役)に任命されるほどになります。

そして804年、第18回遣唐使として唐に渡りました。この船にはその後の最澄のライバルとなる空海(774-835)(のちの真言宗の開祖)も同船していました。入唐後の約1年間、おびただしい経文を書写し、大乗戒を授戒し、禅や密教について学び、帰国。806年に天台宗を開宗します。

その後は法華経による国づくりのために尽力し、後継者育成のために比叡山では厳しい修行を慣行します。衆生救済のための大乗仏教への信念から、大乗戒壇院の建立に心血を注ぎました。この大乗仏教の思想が大論争を巻き起こしたのは前の章段でも触れましたが、日本仏教に新しい風を吹かせたのと合わせて、既得権益となっていた南都六宗とは対立を深めました。大乗戒壇院建立の夢は生前には叶わず、822年、57歳で入滅します。悲願であった大乗戒壇院を天皇に認められたのは、最澄の死後一週間後でした。

3-3  円仁(794-864)・円珍(814-891)・安然(841-915)  ―天台密教の確立

真言宗の密教を東密と呼ぶのに対して、天台宗の密教を台密と呼ぶのは先にも述べました。最澄と空海は同じ遣唐使船に乗って唐に渡りました。最澄は天台教学や禅や密教について学び、日本に持ち帰りました。しかし、最澄の持ち帰った密教は傍系のものであり、空海の持ち帰った密教こそが正当な中国密教でした。最澄は空海に弟子入りを志願してまで、正当な密教について学ぼうとしましたが、真髄の核になる部分は教えてもらえなかったそうで、こうして台密は東密に対して優位性を奪われてしまいます。

しかし最澄の後、天台密教の発展に尽力した人物がいます。最澄の愛弟子の円仁と円珍です。円仁は最澄が亡くなった後に唐に渡り、約10年かけて天台教学を学び、最新の密教を持ち帰ります。さらに円珍も約5年間唐に渡り天台教学や密教に関する書物を持ち帰り、円仁の功績をさらに前進させました。

そして円仁と円珍によって発展した台密を完成させたのと言われているのが安然です。円仁と円珍は、密教も法華経に包括されるものとしていましたが、安然は、法華経よりも密教を上に置くことで、密教教義より発展させ、ついに台密は東密を凌ぐほどになったと言われています。ただし、そうなることで天台宗と真言宗の違いが不明瞭になってしまい、天台宗内部からも批判を浴びてしまったとも言われています。

3-4 良源(912-985 )・源信( 942-1017)  ―天台宗中興の祖

平安中期には良源によって比叡山は学問や修行の両面でさらに充実していきます。消失した東塔を再建し、当時は荒れ果てていた横川を整備し、現在のような東塔、西塔、横川の三塔体制が確立します。まさに天台宗の中興の祖であり、比叡山を学問的にも教団的にも大きく発展させました。

さらに弟子の源信が著した『往生要集』は日本の古典文学の最高峰とされています。『往生要集』は中国にも伝わり、天台山の高僧からも激賞され、「日本小釈迦源信如来」という称号を送られたほどです。

『往生要集』で描かれているのは凄惨な地獄の風景と、そこから浄土に往生するための方法で、のちの日本の浄土教発展の基礎となり、特に法然の浄土宗や親鸞の浄土真宗の信者から今でも厚い信仰を集めています。

3-5 山法師による武装化(平安時代後期-戦国時代)

白川法皇の言葉に、「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」というものがあります。思い通りにならないものを3つあげたのですが、この「山法師」とは、比叡山延暦寺の僧兵のことです。僧兵は比叡山に限らず、寺院や神社が組織した武装集団のことで、有名なものには比叡山延暦寺、奈良の興福寺など、日本中の大寺社が僧兵を従えていました。僧兵のはじまりは古代後期からとも言われています。

もともとは、時代が武家社会になっていく中、広大な寺領や神領をもつ寺社もさまざまな勢力との紛争を抱え治安維持や自衛のために武装することになったのが始まりです。しかし、延暦寺は日本仏教の中心としての権威と武力と財力があり、時の権力者を無視できるほどの、一種の独立国のような状態とにまでなり恐れられたのです。

仏罰などを振りかざして朝廷や幕府に強硬な手段に訴える(強訴:ごうそ)など、僧兵を持つ寺社の横行に武家側も反発し、各地で寺社と武家の衝突が起きました。その着地点が織田信長(1534-1582)による比叡山焼き討ちです。信長の所業は非情だとする声もありますが、反面、権勢を振るう比叡山に鉄槌を下したという肯定的評価が多く、中世期にいかに比叡山が堕落したがわかります。

3-6 天海( 1536-1643)  ―徳川三代の信任厚くも謎も多い怪僧

天海は江戸時代に徳川家康の側近として活躍した僧侶です。織田信長によって焼き討ちにあった比叡山を再興しました。家康ばかりではなく、二代将軍秀忠や、三代将軍家光からの信任も厚く、比叡山の復興は数十年にわたって行われます。また、「関東天台法度」を定め、天台教団の中心を関東の喜多院に移しました。これは、朝廷と比叡山のつながりが強いために取られた策だと言われています。

とかく出自が不明で謎ばかりがつきまとう天海。さまざまな謎や伝説を残している怪僧ですが、天海がいなければいまの比叡山はなかったかもしれない、といわれているとても重要な僧侶です。

4 天台宗の仏壇仏具・法要マナーなど

4-1 天台宗の仏壇

天台宗の仏壇の本尊は、釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来、観世音菩薩などさまざまです。これは、はじめにも触れたとおり、天台宗が法華経、密教、禅、念仏など、さまざまな教義を取り入れており、特定の本尊を規定していないからです。仏壇仏具店などで市販されているもので多いのは釈迦如来です。また、脇仏として右に中国天台宗の開祖である智顗(天台大師)、左に最澄(伝教大師)をお祀りすることが多いようです。

その下の段には、ご先祖様の位牌を並べ、ご本尊とご先祖様の両方に対して礼拝します。

天台宗の仏壇は、木目を活かした「唐木仏壇」が用いられることが多いようですが、最近では宗派の様式にとらわれない家具調仏壇や、コンパクトなサイズのモダンな仏壇もよく選ばれています。

4-2 天台宗の戒名・位牌

天台宗の戒名の特徴は梵字の「ア」を頭文字につける点です。「ア」字は大日如来を表す梵字です。寺院によっては阿弥陀如来を表す「キリーク」をつけることもあるので、必ず寺院に確認しましょう。

上から順番に院号・道号・法号・位号です。

ア:大日如来を表す梵字


キリーク:阿弥陀如来を表す梵字

4-3 天台宗の数珠は

天台宗の本式の数珠(天台数珠)は、108つ連なる主玉が扁平な平玉なのが特徴です。ただし、本式の数珠を使用するのは寺院や熱心な檀信徒に限り、一般の人はどの宗派でも使える略式数珠や、二連の振り分け数珠を用います。

4-4 天台宗のお焼香は

天台宗の焼香は心を込めた1回か、仏法僧の三宝に供える意味で3回かのいずれかで良いでしょう。天台宗の公式ホームページでは、特に焼香の回数について詳しく書いていません。むしろ、遺族や参列者への気遣いを大切にするように示しています。

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現在も、日本仏教の母山としての存在感を示している天台宗。比叡山には多くの修行者が集い、参拝者もあとを絶ちません。法華経の精神を第一義として、大乗仏教、つまり、すべての人にあまねく仏法が届き、救済するための仏教は、令和となったいまもたしかに息づいています。

「山川草木悉有仏性」という言葉があります。山も川も草も木も、どんなものにも仏になれる「仏性」がある、という意味です。誰もが仏になれる。悟りに至る方法がある。それをすべての人々に解放したのが最澄なのです。

Text by:玉川将人
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