真言宗は、空海(弘法大師)によって開かれた密教系の宗派です。空海の作り上げた高度な思想体系は現代でも錆びつくことがないと言われています。また、いまでも数多くの檀家や信者がおり、高野山奥の院への参拝、四国八十八箇所巡礼、日本全国に伝わる弘法伝説など、宗派としてだけでなく民間信仰の場面でも多くの人の心の拠り所として信仰を集めています。この記事ではそんな真言宗についてまとめました。
真言宗ってどんな宗派?
1 真言宗ってどんな宗派
真言宗とは、日本の仏教の宗派のうちのひとつで、814年に空海(弘法大師)が開きました。代表的な寺院に、高野山金剛峰寺(和歌山県)や教王護国寺(東寺:京都市)などが挙げられますが、真言宗は諸派に分かれているため、その数だけ本山寺院があります。
平成30年度の宗教年鑑(文化庁)によると、真言宗系の諸派は大小あわせて45、信者数は535万人にも及びます。また、宗教法人としての教団はないものの、日本中に点在する民間信仰の祈祷師(いわゆる「拝み屋さん」)の多くが真言宗の教義や作法を取り入れていること、さらには民間行事として大師講(弘法大師への報恩を行う行事)などが行われていることを考えると、真言宗の信者はもっと広がりを持って捉えることもできます。
真言宗のご本尊は大日如来。名前の通り「大いなる日輪」という意味があり、密教においては宇宙の真理、宇宙そのものとされています。真言宗にもさまざまな寺院があり大日如来以外の諸仏(阿弥陀如来、薬師如来、観世音菩薩など)を本尊としていますが、それらはすべて大日如来が時と場所に応じて姿を変えているものとしています。
真言宗の「真言」とはサンスクリット語の「マントラ(mantra)」を漢訳したもので、「仏の真実の言葉」を意味する呪文のような短い語句のことです。「お経」が論理的に仏の教えを説いているのに対し、真言は神聖な呪句、分かりやすくいうならばおまじないのようなものです。
たとえば大日如来の真言、というものがありこれは「オンアビラウンケン」。この言葉の中に大日如来の一切の真理が含まれていると言われており、大日如来に手を合わす時にこの真言を唱えます。また、開祖である空海(弘法大師)も大切な礼拝の対象とされており、その際は「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」という真言を唱えます。
2 真言宗の教えと特徴
2-1 真言宗は密教
真言宗は密教です。唐で正統密教を修めた空海が体系化して日本で広めたものです。真言宗について知るにはまずはこの密教がどういうものかを知っておく必要があります。しかし「密教」というのは「秘密」の教えであり、師匠から弟子へと厳格なルールで直伝されるもの。その教義を言葉に置き換えて説明するのがそもそも難しいという側面は否めませんが、なるべく分かりやすく解説いたしますので、お付き合い願います。
密教と顕教
密教の対立概念として「顕教(けんきょう)」というものがあります。顕教は「顕(あきら)かになる教え」、つまり、経典などに記された文字や言葉を通じて、あらゆる人が仏の教えに触れる機会が開かれている、いわば開放的な宗派を指します。
それに対して密教は、読んで字の通りで「秘密の教え」と呼べるでしょう。瞑想や加持祈祷などを重んじて、その教えの継承も秘密のうちに師資相承(ししそうしょう)されます。万人が理解できる経典だけでは物足りず、師匠から弟子に直接作法を伝えることが大切とされており、顕教に比べて閉ざされた性格だと言えます。
ちなみに、空海の最大のライバルである最澄(天台宗の開祖)は密教と顕教は同格であると説いたのに対し、空海は密教の優位性を説きました。
2-2 密教の教えの根幹、胎蔵界と金剛界
胎蔵界は母なる女性の慈悲、金剛界は男性の知恵
密教のよりどころとする経典に『大日経』と『金剛頂経』があります。そして、『大日経』が描く宇宙観を「胎蔵界」、『金剛頂経』が描く宇宙観を「金剛界」と呼びます。
このふたつの経典は「両部の大経」と呼ばれ、まさに密教の教えの根幹です。
胎蔵界は、その文字通り、女性の胎内や子宮を意味していると言われており、そこから女性性や慈悲を表していると言われています。
一方の金剛界は、男性性や智慧を表していると言われています。「金剛」とはダイヤモンドのことで、大日如来の智慧が何ものに動じないことを表しています。
曼荼羅
それぞれの経典に書かれている宇宙観を目に見える形にしたのが曼荼羅(マンダラ)です。真言宗のお寺では基本的に、本堂の右に「胎蔵界曼荼羅」、左に「金剛界曼荼羅」をかけます。
空海によってまとめあげられた胎蔵界と金剛界
『大日経』と『金剛頂経』はともにインドで生まれた密教経典ですが、出自は全く異なるもので、インド人はそれぞれを別個のものとして捉えていたと言われています。そんな別系統の密教をひとつに統合しようとしたのが、唐の密教僧・恵果(けいか)でした。しかし恵果は、密教の思想や教義をまとめた著作を残していなかったため、その流れの正当後継者となった空海が、『大日経』の「胎蔵界」と『金剛頂経』の「金剛界」を統一的に組織していきます。インドから中国へと発展してきた密教は、空海により日本においてまとめあげられ、体系化されていったのです。
空海による、胎蔵界の女性性と金剛界の男性性の融合こそが、真言密教の宇宙観でありその真髄だと言われています。真言密教の宇宙観は、インドや中国からの輸入だけには止まらない、日本独自の自然崇拝や山岳信仰などを織り交ぜた、空海の独創によってまとめ上げられた広大な思想体系だとし、現代においても高く評価されています。
2-3 即身成仏(そくしんじょうぶつ) 大日如来と一体化することを目指す
真言密教では、われわれ人間が修行をすれば、生きながらに仏になれるとしています(即身成仏)。これはこれまでの仏教の論理とは若干異なります。なぜなら、本来仏教の目指すところは煩悩の消滅、無我、空などの実体性を持たないという真理だったはずなのですが、密教では宇宙的な絶対者である大日如来と一体化することを目指しているのです。
2-4 三密加持(さんみつかじ) 身体と言葉と心で仏と一体になる
人間が生きながらに仏になるにはどうすればよいのでしょうか。そのためには、三密を大日如来と一体にすることだと空海は説きます。
三密とは、「身密」「口密」「意密」のこと。つまり、身体(身)と言葉(口)と心(意)を大日如来に重ねることで、人も仏になれるとしているのです。この実践方法は、言葉で説明するだけであれば、大変シンプルです。
- 身密・・・手に印(手の指でさまざまな形を作り諸仏を表す)を結ぶ
- 口密・・・仏の心理である真言を称える
- 意密・・・心を仏の境地に置く
ちなみに顕教では、同じ身口意のことを「三業」と呼び、煩悩を生み出す悪しき根源として捉えています。しかし、真言宗ではその煩悩の源泉をも受け入れています。なぜなら、すべての人間が仏になれる資質を秘めているからです。この世のあらゆる現象が大日如来の現れであるならば、煩悩もまた現実として受け入れるべきものなのです。ここに真言宗の「即身成仏」の思想をみてとることができます。
3 日本仏教のスーパースター 空海(774-835)
空海は、間違いなく日本仏教のスーパースターです。1000年の歴史があると言われている空海ゆかりの88の寺院を巡礼する四国遍路はいまも多くの人が参拝していますし、高野山にはさまざまな戦国武将や時代時代の有力者のお墓が建立されています。民間信仰でも空海は礼拝の対象となっており、文化庁の調査でも把握しきれないほどの信者が日本中に存在している。そんな空海という人物について、ご紹介いたします。
3-1 生い立ち―佐伯真魚
空海は、774年6月15日に讃岐国多度郡屛風浦(現在の香川県多度郡多度津町)に生まれました。ちなみにこの日は密教の根本経典である『金剛頂経』をインドから中国に持ち帰って翻訳した高僧・不空三蔵が亡くなった日でもあるため、その生まれ変わりだと信じられています。
幼名は佐伯真魚(さえきまお)。父の佐伯田公(さえきのたぎみ)は郡司で、その土地の豪族でした。子供の頃から利発で、いわば神童だった真魚には一族の期待がかかり、田公は真魚を中央の官人にしたいと考えていました。母方の伯父である阿刀大足(漢学者)に従って15歳で京に上って儒教を学び、18歳で大学入学を許されます。これは、当時の地方の豪族の子にとってはありえないエリートコースだったそうです。
しかし、当時の大学には貴族出身の学生たちの出世主義が横行しており、それに反発を感じた空海は19歳を過ぎたあたりから仏門に進むことを決め、山林に入っていきます。
3-2 「空海」の名前の由来とは 国内各地での仏道修行
仏門に足を踏む入れた空海は、吉野の金峰山や四国の石鎚山などの険しい山々で山林修行を積んでいく中で仏教思想を学んでいきました。
その中で空海はある修行者と出会い、虚空蔵菩薩の真言を1日に1万遍称えるという「虚空蔵求聞持法」という修法を授かります。室戸岬の岩窟でこの修行をしていた時に、口の中に明星が飛び込んでくるという神秘体験をし、これによって空海は悟りを開いたと言われています。そして、その時に目に飛び込んできたのが、室戸岬の先に広がる空と海。そこから自身を「空海」と名乗りだしたのです。
その後、大和国高市郡(現在の奈良県橿原市)の久米寺で『大日経』7巻を発見。密教の根本経典である『大日経』の研究に明け暮れながら、さらに深く密教を学びたいと、入唐への想いを募らせていきます。
官人にしたかった父の佐伯田公は、仏道に進む息子に激怒したのですが、空海は父に向けて書いたとされる『三教指帰(さんきょうしいき)』の中で出家を宣言しています。三教、つまり儒教、道教、仏教の中で仏教が最も優れているとしめしているのですが、この著作は日本で初の比較思想史論としても高く評価されています。
その後、24歳から31歳までの間の詳しい足跡はあまり知られておらず、空白の7年間と言われています。留学の準備に奔走していたと思われます。
3-3 遣唐使として唐に渡る ―密教の正統な後継者に
空海は第18次遣唐使(804)として唐に渡ります。別の船には、のちに天台宗を開く最澄も乗っていました。すでに名声を得ていた最澄は短期留学生として国費で唐に渡りました。一方の空海の渡唐はあくまでも私費による留学で、期間は20年を予定していました。
空海は密教の正当な後継者である恵果(けいか)を訪ねます。恵果は、空海が厳しい修行を積んできていることを一目で見抜き、1000人を越える弟子たちを差し置いて、日本からやって来た留学僧に、法を正式に伝授する儀式である「伝法灌頂」を執り行います。それは取りも直さず次の後継者として空海を選んだことを意味します。そして一刻も早く日本に帰り真言密教の教えを持って天皇に仕えるよう、空海に促しました。こうして空海は予定を変更して帰国の途に着きます。唐に滞在したのは2年足らずでした。
3-4 真言密教の確立
日本に戻ってきた空海は、大宰府経由で都に戻り、平城天皇に『請来目録(しょうらいもくろく)』を提出します。請来目録には、空海が唐から持ち帰って来たさまざまなものが記載されているのですが、それは多数の経典、両部界曼陀羅、密教法具や祖師図など、密教を含めた最新の大陸文化体系だったのです。
その後、空海の名声はぐんぐん高まり、鎮護国家の法会を任され、また諸国を遍歴しては、民衆救済や社会事業に尽力したのは有名な話です。土地や寺院を天皇から譲られ、高野山や教王護国寺(東寺)などさまざまな真言密教の道場を建てていきます。
3-5 「弘法大師」の諡号
835年3月21日、空海は62歳で息を引き取ります。密教では死のことを「入定(にゅうじょう)」と呼び、永遠の瞑想に入るものと考えられます。空海はいまでも高野山奥の院の御廟の中で生きているとされ、入定から1000年以上もの月日が経ったいまもない、たくさんの人々の崇敬を集めています。
なお、入定から86年後の921年には醍醐天皇より「弘法大師」の諡号が贈られています。諡号とは、朝廷から贈られる高僧への称号です。
4 空海の功績
空海は、真言密教の確立だけでなく、土木、建築、文学や教育など、さまざまな社会事業をも手がけて当時の人々を救済しました。
4-1 土木技師としての才能
香川県満濃町になる満濃池は洪水により堤防が決壊したのですが、821年に空海の指揮のもとに改修されました。当時3年かかっても完成しなかった改修工事をたった3ヶ月で完成させ、いまでもそ日本一大きなため池として知られています。また、その他にも、大和国(奈良県)の益田池の改修工事や、摂津(大阪府)大輪田に船頼所を作るなど、土木技師としての才覚を発揮しています。
4-2 「三筆」に挙げられる書の達人
「弘法にも筆の誤り」ということわざは、弘法大師ほどの書の名人でも書き損じはあるという意味です。空海は書家としての評価も大変高く、平安時代には「三筆」のひとり(あとの二人は嵯峨天皇と橘逸勢)に挙げられるほどです。有名なエピソードとして、遣唐使として唐に渡ったとき、はじめは海賊として疑われていたものの、空海の筆による嘆願書があまりにも美しかったことから、遣唐使として認められたと言われています。
4-3 文人としての評価
空海は筆が達者なだけでなく、その著作も文学的に高い評価を受けており、当代きっての文人と言われています。たとえば、出家に反対する家族に対して出家を宣言するために書いたと言われている先に述べた『三教指帰』は日本初の戯曲でありながら、日本における比較宗教論の先駆けとも言われています。
『篆隷万象名義(ていれいばんしょうみょうぎ)』と呼ばれる日本で初めての辞書の編纂も手がけ、さらには「いろはにほへどちるぬるを」から始まる『いろは歌』も空海が作ったものだと言われています。諸行無常の真髄を、まったく異なる47音の韻文にしているところに、空海の才覚のすごさが見て取れます。
4-4 庶民教育に貢献
空海は庶民教育を目的とした綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を設立します。当時の教育は、都の大学は貴族のためのものであり、また地方の教育機関であった「国学」は郡司(地方官僚)のために運営されていたものでした。庶民に向けた教育の場は皆無に等しかったようです。
空海は、「みなひとしく仏の子である」という立場から庶民への教育機会の解放を目指し、天皇や貴族や高僧らに呼びかけ、綜芸種智院の設立にこぎつけます。空海の死後、財政的な問題からいったんは閉校しましたが、1881年に再興、1949年より種智院大学として今に至ります。
5 日本各地に今も息づく大師信仰
いまもなお多くの人々の信仰を集めている弘法大師、空海。「お大師さま」の愛称で現代でも息づく大師信仰をご紹介します。
5-1 死者供養の場、高野山奥の院
高野山は「日本総菩提所」の異名を取ります。高野山は117もの寺院が立ち並ぶ宗教都市ですが、もっとも奥に位置するのが奥の院。「一の橋」と呼ばれる橋から「弘法大師御廟」までは約2㎞の区間です。この参道には樹齢数百年の杉木立や膨大な数の墓石群が並び、その景観はまさに圧巻。
他宗の開祖である法然や親鸞、織田信長や豊臣秀吉のような戦国武将、江戸時代の藩主、さらにはそれぞれの時代の有力者の墓石が並びます。その他にも関東大震災の供養塔や、戦没者の供養塔などもあります。さまざまな時代の庶民たちの納骨供養の場としても知られ、日本中の人々が、死者供養の場として高野山の地を選んでいるのです。
5-2 「お遍路さん」 四国八十八箇所霊場巡り
空海ゆかりの88の寺院をめぐる「四国遍路」は現代も行われており。年間の巡礼者数は10万人から30万人と言われています。空海自身が四国の讃岐国に生まれ、修験者の修行を行っていたことから、四国全体が修行の場として捉えられていました。現代のような巡礼として確立していったのは江戸時代あたりからだと言われています。最近では、歩き遍路に加えて、自転車や車を利用した遍路、観光バスを貸し切ったツアー巡礼もさかんに行われています。
5-3 「拝み屋さん」 日本各地に点在する民間宗教
「拝み屋さん」とはいわゆる祈祷師のことで、加持祈祷を行う在野の宗教者のことです。特定の宗派に属しているわけではないことが多いため、社会の表側に出ることはあまりありませんが、筆者が知るだけでも拝み屋さんは日本中に点在し、その数だけ信者がいます。
インドで始まった仏教にはもともと祈祷の概念はなかったのですが、密教には護摩という加持祈祷があります。祈願の文字を書いた細い木片を燃やす法要です。燃え上がる炎、立ち込める香りなど神秘的な非日常感につつまれます。空海はこの加持祈祷のスタイルを日本にもたらし、これが日本で真言密教がさかんになるにつれ広まっていったものだと思われます。現在でも真言密教をベースにした加持祈祷が多く、大日如来、不動明王、弘法大師らが礼拝の対象となっているようです。
6 空海以後の真言宗の発展
真言宗は師資相承、つまり体系的な教えの方法があるわけではなく、師匠が弟子に直接教えを伝承するのが基本であるため、どうしても分派しやすいという性格を持っています。教義そのものは空海のまとめた体系があまりに広大で完成されたものなので、宗内での論争は起きづらいのですが、作法に対する考え方の違いや、派閥や利権を巡った対立が分派を引き起こしました。
6-1 覚鑁(かくばん)と新義(しんぎ)真言宗
覚鑁は平安時代後期の真言宗の僧です。空海の死後、腐敗衰退した真言宗の立て直しを図りました。朝廷の支援を受けながら強硬に改革を進める覚鑁に、他の派閥が反発し、激しく対立。高野山を追われた覚鑁は根来寺(和歌山県岩出市)を拠点に、独自の教学や解釈を基礎にした「新義真言宗」を展開していきます。しかし、その後も覚鑁や根来寺は僧兵らに襲われ、心休まる日はなかったと言われています。
後世からの覚鑁の評価は高く、密教に浄土信仰の要素を取り入れた「密厳浄土」思想を打ち立てました。また、日本中に五輪塔を普及するきっかけとなった「五輪九字明秘密釈』の著者でもあり、現在のお墓石塔文化の先駆けの役目も果たしています。
高野山や東寺などの「古義(こぎ)真言宗」に対して、根来寺から始まる新しい潮流は「新義真言宗」と呼び、その後は智山派(京都・智積院)と豊山派(奈良・長谷寺)に分かれていきます。
6-2 苦難の戦国時代
中世期、寺院の勢力は強大で社会的に大きな影響力を持っていました。信仰による求心力だけでなく、寺院の財政力や軍事力は時の戦国武将の目には脅威に映ったのです。織田信長は比叡山を焼き討ちにし、豊臣秀吉は根来寺を攻撃しました。高野山も信長や秀吉の攻撃対象だったそうですが、本能寺の変で信長が倒れ、さらには秀吉に篤く信頼された木食応其(もくじきおうご:1536~1608)によって、高野山は戦火をまぬがれます。
6-3 権力の統制下におかれながらも庶民の篤い信仰を集める
江戸時代の寺檀制度や本末制度、明治時代の廃仏毀釈、現在は宗教法人法の統制下にある点は、他の宗派と同じです。とはいえ、空海というカリスマの影響力は現代においても強く、さまざまな戦国武将や諸国の大名が高野山に墓所を設けていますし、四国遍路にはいまも数多くの巡拝者を国内外から集めています。
7 真言宗の仏壇仏具・法要マナーなど
7-1 真言宗の仏壇
真言宗の仏壇の本尊は、中心に大日如来を、脇仏として右に弘法大師、左に不動明王をお祀りします。その下の段には、ご先祖様の位牌を並べ、ご本尊とご先祖様の両方に対して礼拝します。
真言宗の仏壇は、木目を活かした「唐木仏壇」が用いられることが多いようですが、最近では宗派の様式にとらわれない家具調仏壇や、コンパクトなサイズのモダンな仏壇もよく選ばれています。
7-2 真言宗の戒名・位牌
真言宗の戒名の特徴は梵字の「ア」を頭文字につける点です。「ア」字は真言密教の根本仏である大日如来を表す梵字です。
上から順番に、ア・院号・道号・戒名・位号です。
- (男性)ア ◯◯院◆◆△△●●居士
- (女性)ア ◯◯院◆◆△△●●大姉
7-3 真言宗の数珠は
真言宗の本式の数珠は、108個の主玉が連なる二重タイプが特徴です。房は表と裏それぞれ2つ下がっています。
7-4 真言宗のお焼香は
真言宗の焼香は心を込めた3回です。「仏・法・僧」の三宝に帰依し、「身・口・意」の三密を整えるという意味があります。
8 代表的な真言
真言宗の基本は、まさに「真言」です。身・口・意の三密加持による即身成仏が目指すべきところですが、そのうちの1つが、口に真言を唱えること(口)です。この章段では代表的な真言をご紹介します。
光明真言 | オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン | 過去の一切の罪障を除滅してくれるための真言。 |
---|---|---|
心経 | ギャテイ・ギャテイ・ハラギャテイ・ハラソウギャテイ・ボヂ・ソワカ | 般若心経の最後にある真言。 |
大日如来 | オン・アビラウンケン(胎蔵界) オン・バザラダトバン(金剛界) |
宇宙の真理を神格化した、真言密教の教主 |
釈迦如来 | ノウマク・サマンダ・ボダナン・バク | 仏教の開祖であるお釈迦様 |
文殊菩薩 | オン・アラハシャノウ | 釈迦三尊の脇侍。知恵の仏さま。獅子に乗る。 |
普賢菩薩 | オン・サンマヤ・サトバン | 釈迦三尊の脇侍。慈悲の仏さま。像に乗る。 |
地蔵菩薩 | オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ | 弥勒菩薩が現れるまでの間。六道輪廻をするすべての人々を救ってくれる。 |
弥勒菩薩 | オン・マイタレイヤ・ソワカ | 未来の仏さま。釈迦の死後56億7000万年後に現れる。 |
薬師如来 | オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ | 病気平癒など、現世利益をもたらせてくれる如来。 |
観音菩薩 | オン・アロリキャ・ソワカ(聖観音) | 阿弥陀三尊の脇侍。千手、馬頭、十一面などさまざまに姿を変えて人々を救う |
勢至菩薩 | オン・サン・ザン・ザン・サク・ソワカ | 阿弥陀三尊の脇侍。極楽浄土で阿弥陀如来に仕える |
阿弥陀如来 | オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン | 西方極楽浄土の主。阿弥陀を信じるものは死後等しく極楽浄土に生まれ変わる |
阿閦如来 (あしゅく) |
オン・アキシュビヤ・ウン | 菩提心を持つことの大切さを説き、修行者を力強く導く。 |
不動明王 | ノウマク・サマンダ・バザラダン・センダマカロシャダ・ソワタヤ・ウン・タラタ・カン・マン | 怒りの形相で仏の敵を退治してくれる。背中に火炎を背負うため、護摩修養の時に拝まれる。 |
虚空蔵菩薩 | ノウボウ・アキャシャキャラバヤ・オン・アリキャ・マリ・ボリ・ソワカ | 知恵と福徳の仏さま。空海は虚空蔵求聞持法で悟りを開いた。 |
空海という天才的なカリスマによって作られた真言宗は、いまなおたくさんの人々の信仰を集めています。私たちの中には誰もが仏になる素質を持っており、身口意を整えることで誰もが仏になれるという即身成仏の教えは、この世に生きる人たちの大きな心の支えとなり、1000年以上もの月日を超えてもいまなお色褪せません。
この記事を読んで真言宗に興味を持った方は、ぜひとも一生のうちに一度は和歌山県の高野山に登ってみてください。1000年以上もの昔に、山上にあれだけの大伽藍を建てたことのスケールの大きさ、時代を超えたさまざまな歴史上の人物や庶民たちの死者供養が集められている姿は圧巻としか言いようがありません。まさに日本の聖地と呼んでも過言ではないでしょう。