1.日蓮宗ってどんな宗派

日蓮宗は、鎌倉時代の僧侶・日蓮によって開かれた日本の仏教宗派のうちのひとつです。総本山は山梨県にある身延山久遠寺。寺院の数は全国に5158ヶ寺あり、信者数は約356万人とされています。ただし、日蓮宗はさまざまな宗派に分派しており、日蓮を崇拝するいわゆる「日蓮系」「法華系」全体での寺院数は6930ヶ寺、信者数は1150万人を超えています。

※数値データは文化庁平成30年度『宗教年鑑』より

1-1 日蓮 圧倒的なカリスマ

日蓮宗、あるいは日蓮系の宗派が現代でもなお数多くの信者を獲得しているのは、日蓮という圧倒的なカリスマによります。日蓮が生まれたのは鎌倉時代、武家社会が台頭し、疫病や天災、さらには元寇による外敵に翻弄され日本社会が混迷を極めていた頃でした。日蓮はさまざまな迫害や受難を受けながらも、法華経の教えによってこの国を立て直そうと努めました。命を惜しまないほどの行動力を持った日蓮だからこそ、いまなお多くの人に信仰されているのです。日蓮の生涯についてはのちほど詳しくとりあげます。

1-2 たくさんの分派と新興宗教

日蓮宗以外にも、日蓮を信仰するさまざまな宗派があります。これは、日蓮のカリスマ性だけでなく、日蓮の死後、6人の本弟子たちがうまくまとまらずに対立していったからだと言われています。それに加えて、日蓮の教えは大変わかりやすいこともあり、庶民に広く普及していきました。現世利益(来世ではなくこの世界で救われる)を重視し、また信者全員が布教師となって法華経の教えを説いたため、信者の獲得もさかんに行われたのです。

明治以降に現れた宗教団体を新興宗教と呼びますが、創価学会、霊友会、立正佼成会などはどれも日蓮系の新興宗教の代表です。

1-3 根本経典「法華経」

日蓮宗では、『法華経』を根本経典としています。仏教には、お釈迦さまの教えをまとめたことば、いわゆる「経典」が膨大にある中で、日蓮は法華経こそが最高の経典と考えました。

法華経は大乗仏教の代表的な経典で、だれもが平等に成仏できると説かれています。成立は紀元前後とされています。鳩摩羅什(くまらじゅう)という僧侶が訳したものがもっとも広く普及しているもので、正式名称を『妙法蓮華経』といいます。

法華経以外に、日蓮が残したさまざまな遺文(いぶん:本や手紙などの総称)も大切に保管されて今日に伝えられています。代表的なものに『立正安国論』『開目抄』『観心本尊抄』などがあります。

2.日蓮宗の教えの特徴

日蓮宗の根本経典である法華経は、中国や日本の他の仏教宗派でも大切にされており、特に天台宗は法華経の教えを中心として成立しました。しかし、他の教えも含んでいた天台宗と異なり、日蓮は法華経を他にはない唯一無上の経典として、その教えを人々に広めていきました。日蓮宗の教えは、次の3つにまとめることができます。

  • 一乗妙法(いちじょうみょうほう:どんな人でも平等に成仏させる)
  • 久遠本仏(くおんほんぶつ:お釈迦さまの永遠の生命)
  • 菩薩行道(ぼさつぎょうどう:私たちが生きているこの社会での実践)

2-1 一乗妙法(いちじょうみょうほう)―どんな人をも平等に成仏させる

「一乗妙法」とは法華経の前半部分の主要テーマで、小乗(しょうじょう)と大乗(だいじょう)の対立を超えたところに真理があると説いています。

仏教は、その教えの捉え方によって小乗(しょうじょう)仏教と大乗(だいじょう)仏教に分かれていきます。小乗仏教では、まず自分が救われることに専念します。修行者自身が世俗を離れて、ストイックな修行に身を投じて悟りを開こうとするもの。お釈迦さまが入滅して以降、主に東南アジア方面に広がっていきました。一方の大乗仏教は、自分自身の解脱(悟りの境地にたどりつくこと)よりも、他者の救済を優先しました。僧侶は世俗を離れるのではなく、一般の生活をともにする中で悟りを目指します。中国や韓国や日本といった東アジアに広がっていきました。

ところで「小乗仏教」という呼び名は大乗仏教側が名付けたものです。そこには、自分自身が救われることを第一に考える小乗仏教への蔑視が含まれており、小乗と大乗は違うのだという大乗側の意思表示が見てとれます。

法華経では、さまざまな考え方、修行の方法はすべてが「方便」つまり手段であり、行きつくところはすべてひとつで、お釈迦様の教えの真理は一つだと説かれています。小乗や大乗を超えた一つの真理、だからこそ「一乗」なのです。

この法華経の精神が「大乗仏教の集大成」と言われるゆえんで、日蓮は他の仏典を差し置いて、法華経の教えを人々に説いて回ったのです。

2-2 久遠本仏(くおんほんぶつ)―お釈迦さまの永遠の生命

法華経は、28の章段で構成されていますが、そのうちの第16「如来寿量品」の中で、仏は本来は永遠の昔から悟りを開いており、人々の救済のために地上に姿を現していると説いています。この永遠の仏こそが「本仏」であり、大乗仏教のあらゆる諸仏は、この本仏のコピーに過ぎないとされます。

かつてインドに生まれ、仏教を開いた実在の人物であるゴータマ・シッタルダは釈迦と呼ばれていますが、これも本仏が姿を変えてこの世界に出現したものだとしています。。

2-3 菩薩行道(ぼさつぎょうどう)―私たちが生きているこの社会での実践

菩薩とは、すでに悟りの境地に達しているものの、この世界にとどまり、苦しむ人々を救う仏さまのことです。大乗仏教の精神は「利他」の二語で表現できますが、この利他の行いの実践こそがまさに、菩薩行なのです。

菩薩がすべき修行は6つあり、これを「六波羅蜜」と呼びます。

  • 布施(ふせ:わけあたえる)
  • 持戒(じかい:戒律を守る)
  • 忍辱(にんにく:耐え忍ぶ)
  • 精進(しょうじん:実践する)
  • 禅定(ぜんじょう:心を安定させる)
  • 般若(はんにゃ:真理を知る)

また、日蓮においては法華経を広めることこそが最上の菩薩行だとして、布教に努めたのです。

3.日蓮の生涯とカリスマ性

強烈な個性と圧倒的なカリスマ性を誇り、いまでも多くの人の信仰を集める日蓮。激しい迫害と受難に耐え忍びながら法華経の布教に打ち込んでいった日蓮の生涯を振り返ります。

3-1 日蓮が生まれた時代

お釈迦さまの死後1500年にあたる1052年から、仏教では末法の世に入ったとされています。日本では平安末期から鎌倉時代にかけて武家が台頭し、源平合戦、さらには天災や飢饉や疫病など、社会不安が増大していきます。また、このころの仏教は、国家権力の近くにあることから堕落と腐敗が進み、多くの宗派が乱立し、対立を深めていきました。

日蓮は、1222年に現在の千葉県鴨川市の漁村で生まれ、12歳で同じく鴨川市にある天台宗の清澄寺にのぼります。幼少期の頃から、なぜ仏教の内部が対立しているのか、なぜ承久の乱で真言密教の祈祷を用いた朝廷側が敗れたのかなど、常に社会に対して問題意識を持っていたと言われています。それは、お釈迦さまというひとりの僧侶の教えであるはずの仏教の真の教えの追求でもありました。日蓮は、既存の仏教の教義を鵜呑みにすることなく、自ら経典に取り組み、自らの頭で考え、思索を深めたのです。

3-2 清澄寺で立教開宗宣言

16歳で正式に出家した日蓮(当時の名前は是聖房蓮長)は、清澄寺を離れ、当時の都だった鎌倉、さらには比叡山、奈良、高野山などでの修行を経て、法華経こそが、末法の世の人々を救うお釈迦さまの真の教えだと確信しました。

1253年4月28日、日蓮は清澄寺に戻り、この時にはじめて「南無妙法蓮華経」の題目を唱え、名を「日蓮」と改めました。この日が日蓮宗の始まり、立教開宗の日なのです。

3-3 激烈な折伏(しゃくぶく)と他宗への激しい非難

日蓮はとかく激しい宗教活動で有名です。これは、末法の世において、布教の方法として折伏(しゃくぶく)がもっとも最善だと判断したからです。布教の方法には、相手の欠点を徹底的に論破する「折伏」と、寛大に相手の意見をまずは受け入れ、穏やかに説得していく「摂受(しょうじゅ)」の2つがありますが、日蓮は前者の方法と採ったのです。

法華経こそが末法の世界を救いうる唯一の教えだとする日蓮は、法華経を放棄した他宗派を徹底的に批判します。日本の仏教は天台宗を中心に発展していきます。天台宗の総本山である比叡山は、仏教の総合大学のような役割を果たし、法華経以外にも、念仏、禅、密教、戒律など、さまざまな要素を取り入れていました。その中でも、念仏に特化した浄土教(浄土宗や浄土真宗)や、禅に特化した禅宗(臨済宗や曹洞宗)が同じ時代に比叡山から派生し、日蓮はこうした法華経を重視しない他宗派を容赦なく、次のように批判しました。

  • 念仏無間(ねんぶつむげん)
    ただ念仏を称えて阿弥陀如来の他力にすがるのは、無間地獄に落ちるほどの業因だ。
  • 禅天魔(ぜんてんま)
    禅は経典を不要とし、権力に取り入ろうとする天魔だ。
  • 真言亡国(しんごんぼうこく)
    真言密教の祈祷は何の力にもならずに国を滅ぼす。
  • 律国賊(りつこくぞく)
    慈善事業に取り組む律宗も、金を集めるだけの国賊だ。

こうした激しい折伏を行う日蓮は、強烈な賛同と批難を浴びながら、社会全体に知られるようになっていきます。

3-4 たびかさなる受難と迫害 日蓮の4大法難

社会不安が増大する鎌倉時代はさまざまな仏教宗派が登場します。時代の主流となっていく念仏信仰や、朝廷や幕府と近い位置にある禅宗などからすると、日蓮は異端そのもの。さまざまな受難と迫害にさらされました。そんな日蓮には4つの大きな法難があったといいます。

松葉谷の草庵焼き討ち

『立正安国論』という、念仏をやめて法華経を信仰するよう説いた著書を、時の権力者である執権北条時頼に献上した日蓮。さらにこのころは鎌倉の市中で辻説法もしていたために、念仏信徒から鎌倉松葉谷にある草庵が焼き討ちにあいます。日蓮は命からがら生き延びましたが、鎌倉を離れざるをえなくなりました。

伊豆流罪

日蓮を危険視した念仏信徒たちが幕府に訴え、伊豆に流罪にされます。

小松原の襲撃

重篤の母を見舞いに帰郷した日蓮を念仏信徒が襲撃。弟子を殺され、眉間に傷を負うものの奇跡的に助かります。

瀧ノ口で斬首の危機

佐渡流罪が決まった日蓮は、護送の途中で鎌倉瀧ノ口で斬首されそうになるが、突然の雷鳴で一命をとりとめます。

3-5 元寇と身延山への入山

元寇とは、モンゴル帝国による2度にわたる日本への侵攻のことです。日蓮は『立正安国論』の中で、法華経を信じずに、浄土教のような邪法を信じていると、外国からの侵略を受けて滅びると予言していました。このことから日蓮は佐渡流罪を説かれ、鎌倉に戻ります。

多くの弟子や信徒を集めるようになりましたが、やはり日蓮の教えは当時の幕府には受け入れられず、山梨県にある身延山に身を置きます(現在の日蓮宗の総本山である身延山久遠寺)。9年間に渡り弟子たちの育成に努めましたが、1282年、61歳で息を引き取ります。

4.日蓮宗の仏壇仏具・法要マナーなど

4-1 日蓮宗の仏壇

日蓮宗の仏壇では、本尊に法華曼荼羅、右に鬼子母神、左に大黒天を祀るのが一般的です。
そして、曼荼羅の掛け軸の前に日蓮の仏像を置きます。

日蓮宗の仏壇は、木目を活かした「唐木仏壇」が用いられることが多いようですが、最近では宗派の様式にとらわれない家具調仏壇や、コンパクトなサイズのモダンな仏壇もよく選ばれています。

4-2 日蓮宗の戒名・位牌

日蓮宗では戒名のことを「法号」と呼びます。冠字として「妙法」を置きます。そして戒名は上から順番に院号・道号・日号・位号です。

  • (男性)◯◯院◆◆日△居士
  • (女性)◯◯院◆◆日△大姉

「日」の文字が入るのは、日蓮の教えを受け継ぐという意味があるからです。

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4-3 日蓮宗の数珠は

日蓮宗の本式の数珠は「法華数珠」と呼ばれています。108個の主玉が連なる2連の数珠で、片側の房が2本、もう片側の房が3本垂れているのが特徴です。

4-4 日蓮宗のお焼香

日蓮宗では、導師は3回、参列者は1回としています。

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日蓮の死後、弟子たちの手で日蓮宗は大きく発展します。室町時代には、京都の民衆の7割が日蓮の教えを信仰したと言われているほどです。以降さまざまな宗派に分派し、法華経や日蓮を信仰する新興宗教が登場し、現在に至ります。

苛烈な宗教者というイメージの強い日蓮ですが、不屈の精神だけでなく、人としてのあたたかさをも持ち合わせていたといいます。民衆の苦悩をとりのぞく、安穏な世の中を作りたいという日蓮の強い想いは、現代人の中にも受け継がれているのです。