浄土宗は、平安末期から鎌倉時代にかけて活躍した僧・法然によってはじまり、いまでも日本中に多くの檀家や信者を抱えています。浄土宗の教えとはどのようなものなのか、そして浄土宗がどのような宗派なのかを分かりやすく解説いたします。
浄土宗ってどんな宗派?
1 浄土宗ってどんな宗派
浄土宗とは、浄土信仰に基づく宗派のうちの一つです。法然を宗祖とし、修行中の法然が比叡山を降りて、吉水草庵と呼ばれる庵を構えて念仏の教えを広め始めた1175年を、浄土宗の始まった年としています。
阿弥陀如来を本尊とし、右に観音菩薩、左に勢至菩薩を従え、この三尊のことを「阿弥陀三尊」と呼びます。ただし、自宅に安置する仏壇には、中央に阿弥陀如来、右に善導大師(中国浄土教の僧侶)、左に法然を祀るのが一般的です。
現在の浄土宗は、約7,000の寺院、約600万人を信者がいるとされています。諸派が存在しますが、おもに鎮西派と西山派に分かれます。鎮西派の総本山は知恩院(京都市)、さらには大本山寺院として増上寺(東京都港区)や善光寺(長野市)などが有名です。西山派はさらに3つの諸派に分かれますが、それぞれの総本山は、西山禅林寺派が永観堂(京都市)、西山浄土宗が光明寺(長岡京市)、西山深草派が誓願寺(京都市)です。
2 浄土宗の教えと特徴
浄土宗の教えは、どのような考えに基づいているのでしょうか。
2-1 念仏とは
浄土宗では「南無阿弥陀仏」を一心に称えることで、阿弥陀如来の作った極楽浄土に往生できると説いています。
念仏とは、仏教における修行のひとつで、仏の名を呼んだり、その姿を思い描いたりすることをいいます。日本で念仏といえば特に「南無阿弥陀仏」の言葉を口にして称える、いわゆる「称名念仏」のことを意味します。しかし実は、念仏にはもうひとつ「観想念仏」という方法があり、これは瞑想をして阿弥陀仏や極楽浄土を心の中でイメージ化することです。一般の庶民は瞑想をするためのお寺やお堂、さらには仏像や絵画を用意することはできないために、観想念仏ではなく、時間と場所を問わない称名念仏が人々の間に受け入れられ、信仰を集めたのでした。
2-2 阿弥陀如来の極楽浄土とは
阿弥陀如来は、浄土宗のご本尊です。「アミダ」とは、古いインドの言葉の「アミターバ」(計り知れない光を持つもの)や「アミターユス」(計り知れない寿命を持つもの)が語源となっています。
浄土宗の中でも重要な経典とされているのは浄土三部経(『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』)です。これらの中では阿弥陀如来の誓願(如来自身が人々の救済を願って必ず成し遂げようと定めた誓い)や、極楽浄土の壮麗さが描かれています。
浄土信仰では、この三部経の中の「仏説無量寿経」に書かれている、阿弥陀如来の誓願を教えの根本としています。法蔵菩薩として修行中の身である阿弥陀如来が立てた48あるの誓願の中の18番目に、次のような誓願があります。
「私が仏となった以上、私を信じるあらゆる人々を私は救います。私の作った浄土に生まれることを願って、少なくとも10回も私の名前を念仏で称えたのに、万が一にも浄土に往生できないようなことがあるのであれば、私は仏になりません。
このような誓いを立てた上で悟りを開き、仏となったのが阿弥陀如来なのですから、浄土教では一心に南無阿弥陀仏の念仏を称えるべきとしています。
また、「仏説阿弥陀経」の中では金銀財宝に囲まれた迷いや苦しみのない世界が描かれています。一部を抜粋して現代語に意訳します。
極楽浄土には七宝の池あり、8つの功徳をもたらす清らかな水が池の中に充満している。池の底には一面に黄金の砂が敷き詰められている。四方には階段がかかり、金・銀・瑠璃・水晶で作られていて、それを登り詰めると楼閣があり。また金・銀・瑠璃・水晶・宝石・赤真珠・碼碯の七宝できれいに飾られている。
「南無阿弥陀仏」と称えるだけでこうした素晴らしい浄土に行けるのです。世情不安や貧困にあえいでいた当時の庶民たちの多くは、この世を憂いて分だけ、より強く極楽浄土に思いを馳せたのでしょう。
2-3 浄土宗がよりどころとする経典
浄土宗の主要経典は「浄土三部経」(『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』)です。その他、法然の著書である『選択本願念仏集』や最晩年に書かれた『一枚起請文』などがあります。
『仏説無量寿経』(大経)
前の章段でも触れたように『仏説無量寿経』では、阿弥陀如来がどのような願いを持って、この世界に出現したのか、その由来が明かされます。「大経」とも呼ばれています。
『仏説観無量寿経』(観経)
この経典には「観」の文字が使われている通り、いかにして極楽浄土の世界を見ることができるのか、つまり極楽往生のための実践法が書かれています。内容はストーリー仕立てで、王位継承をめぐる父と子の骨肉の争いを通して、具体的な極楽往生の実践法が描かれます。「観経」とも呼ばれています。
『仏説阿弥陀経』(小経)
いかに極楽浄土がすばらしい世界かが分かるよう、麗しく描写されている経典。浄土三部経の中でも一番お経が短いために「小経」と呼ばれています。
『選択本願念仏集』
1198年に法然自身が書いた著作。「選択本願」とは『無量寿経』における阿弥陀如来の第十八願のことで、称名念仏こそが極楽往生のための唯一の方法と説いています。
『一枚起請文』
法然が死去する2日前に弟子の源智の懇願によって書かれた、法然の教えが凝縮された短文。極楽に往生するには「間違いなく往生できるのだ」と信じて「南無阿弥陀仏」を称えるほかないとし、観想念仏や仏教研究、学のあるなしに関わらず、念仏をするものは誰もが極楽往生できると、わずか200字の短文に、念仏のエッセンスが込められています。
2-4 浄土真宗との違い
浄土宗によく似た教えに浄土真宗があります。浄土真宗の宗祖である親鸞は浄土宗の宗祖法然の弟子だったほどですから、両者の教えの根本に念仏による極楽往生があることに変わりはありません。その上で、親鸞は法然の教えを受け継ぎながら、浄土信仰をさらに純化させていったと言えるでしょう。以下、浄土宗と浄土真宗の違いをまとめました。
2-5 念仏と信心
ただ阿弥陀仏のはたらきを信じて「南無阿弥陀仏」の念仏を称えることは、浄土宗も浄土真宗も変わりません。ただし、浄土宗が念仏を称えることを重視したのに対し、浄土真宗では阿弥陀如来の本願を信じる信心こそを重視します。
本尊
浄土宗では、本尊は阿弥陀三尊(阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩)で、これらは仏画や仏像として表されます。しかし浄土真宗では、阿弥陀如来を中心に、宗祖である親鸞聖人と、中興の祖である蓮如上人を祀ります。また、「南無阿弥陀仏」「帰命尽十法無碍光如来」「南無不可思議光如来」などの名号を本尊とすることもあります。
出家と在家
浄土宗では、出家仏教の伝統を残しているため戒律もあります。しかし、浄土真宗では出家在家の差を設けずに、阿弥陀仏の誓願を疑いなく信じたものだけが極楽往生できるため、親鸞は非僧非俗の立場を貫きました。
3 浄土宗の源流と歴史
3-1 阿弥陀信仰のルーツはインド
「私を信じるものはどんなものでも救ってみせると」という阿弥陀如来の誓いが説かれている『仏説無量寿経』は、紀元前2世紀のインドで成立したと言われています。この浄土信仰をかつてのインド社会で成立させたのは、龍樹(りゅうじゅ:インド名ナーガールジュナ)や世親(せじん)らだと言われています。龍樹は仏教の修行を難行道(過酷な修行を課して自力で悟りの境地を目指す)と易行道(阿弥陀如来による救いを信じきって悟りを目指す)があると説きました。
3-2 中国での浄土信仰の展開
インドで始まった浄土信仰はシルクロードを伝って中国へとやってきます。中国に浄土教の経典が伝えられたのが2世紀後半ですが、5世紀の初めに慧遠(えおん)が念仏結社を作り、念仏による極楽往生を解きました。しかし、慧遠の説く念仏は、「常行三昧」と呼ばれる修法で、専門の道場と修行が必要だったために、庶民には広まらなかったと言います。
常行三昧の浄土信仰が当たり前だった時代に、称名念仏つまり「南無阿弥陀仏」と口で称える念仏を広めたのが曇鸞(どんらん)です。曇鸞の死後は、経典に精通していたといわれる道綽(どうしゃく)がその教えを論理づけて基礎を築きます。こうした流れを受けて7世紀に登場したのが善導(ぜんどう)です。
善導は当時世界的大都市であった長安に出向いて称名念仏の教えを説いてまわりました。「ただ念仏すれば往生できる」という分かりやすい教えが受け入れられ、爆発的な人気を起こしたと言われています。善導が書写した阿弥陀経は10万巻、図像は300枚にも及び、日本の法然や親鸞に大きな影響を与えました。
3-3 日本での浄土信仰は、空也・源信・良忍から
日本における浄土信仰は、法然が生まれるはるか前の飛鳥時代から伝来していました。日本の初期浄土信仰は、奈良を中心とする南部浄土教(観想念仏を主として学問的要素が強い)と、比叡山を中心とする天台浄土教(常行三昧を主として厳しい修行的要素が強い)に分かれます。これらはいずれも難解なもので、庶民たちには無縁のものでした。
平安時代は仏教界は内乱を起こし、武家は台頭し、飢饉や大地震や疫病などが次々に襲いかかり、まさに「末法の世」そのものでした。末法思想とは、釈迦が入滅後、その教えが消え去り破滅的な社会を迎える状態のことを指し、この教えが現実のものとなっていることに、多くの庶民は不安におののいたのです。こうした社会状況だからこそ、浄土信仰はまたたく間に人々の信仰を集めたのです。法然が登場するまでの浄土信仰の僧侶といえば、空也、源信、良忍がいます。
空也(くうや)
空也は平安時代中期の僧侶で、諸国を遍歴してまわったことから「阿弥陀聖(あみだひじり)」「市聖(いちのひじり)」などと呼ばれています。比叡山で修行をしていた空也ですが、庶民たちには無縁だった比叡山の念仏信仰を庶民レベルにまで引き落として普及させた功績は大きく、のちに法然や親鸞が活躍する素地を作ったと評価されています。また、行く先々で念仏を布教するだけでなく、道路や橋の補修や、病者や貧困者に施すなどして多くの民衆に尽くしました。
源信(げんしん)
源信の代表的著作に『往生要集』があります。これは読んで字のごとく、極楽往生するための要点を約160にも及ぶ経典から選び取った仏教文学書です。特に、序盤に描かれる地獄の描写は大変おぞましく、ダンテの『神曲』の「地獄篇」と並び称されるほどの古典作品です。日本人が連想する地獄のイメージは、源信から始まっており、凄惨な地獄の光景が描写されるからこそ、その後に描かれる極楽浄土の姿をより強く希求することになります。
良忍(りょうにん)
良忍は、平安後期の天台宗の僧侶で、のちに融通念仏宗を開きます。融通念仏とは、集団で念仏することの意義を強調しました。良忍は京都大原の来迎院というお寺で修行中に、阿弥陀如来から、「速疾往生の偈文」を授かります。「速疾」というくらいですから、ものすごい速さで往生できる偈文(仏の功徳をたたえる詩)なわけです。ちなみにその偈文とは「一人一切人一切人一人、一行一切行、一切行一行、是名他力往生、十界一念、融通念仏、億百万遍、功徳円満」というものです(なんだか勢いがありますね)。融通念仏とは、集団で念仏することで、念仏の力が相互に「融通」して大きな力になるという意味です。つまり、一人よりも集団で念仏を称えることで、人と人、人と物、物と物とのすべてが融通和合し、念仏の効果はより増し、速やかに極楽往生できるという教えなのです。
3-4 法然による「浄土宗」
1133年、美作国(現在の岡山県)に生まれた法然(幼名は勢至丸)は、9歳のときに父を殺害されてしまいますが、父の遺言によって仇討ちを断念し、父の遺言通りに仏道に進みます。幼い頃から僧侶としての才覚は群を抜いており、13歳の時に比叡山延暦寺(天台宗)に登ります。15歳で出家、18歳で法然房源空を名乗り、本格的に仏道を進みます。時代は平安末期、平家は全盛を極めて武家が台頭していく時代、仏教宗派内の対立も激化していき、社会不安が増大する中で、法然自身は万人のための救済論を模索する日々が続きます。
法然43歳の時、中国浄土教の祖である善導の『観無量寿経疏』(『観経疏』、仏説観無量寿経の注釈書)にある「一心に阿弥陀仏の名をたたえ、念仏を称えれば極楽往生できる」という一文に触れ、専修念仏(ひたすら「南無阿弥陀仏」を称えること)を広めて浄土宗を開こうと考えます。比叡山を下り(天台宗から離れ)、京都東山の吉水に庵を建て、そこで浄土経典の研究を深めました。法然のもとにはのちの浄土真宗の宗祖となる親鸞らが入門するなど次第に勢力を拡げたのです。
法然の説く専修念仏は、一方で既存勢力からは強烈な反発を買い、当時強大な寺社勢力を誇っていた比叡山と興福寺の僧徒らは、専修念仏の禁止を求めて後鳥羽上皇に奏状を送り、念仏停止が下されました。70歳の法然は四国に流罪となり、やがて京都に戻りますが、80歳で入滅します。
法然の思想は、最晩年に残した『一枚起請文』にもあるように、老若男女、出家在家や貴賤の差などなく、どんな人でも念仏をすることで極楽往生できるという一点に尽きます。貴族や有力者だけのものだった仏教を庶民にまで広めたその功績は大きく、一般の女性に広く布教を行ったのは、日本仏教史上、法然が初めてだとも言われています。また国家権力との関係を断ち切って庶民の救済に尽力しながらなお、法然の教えは一部中央貴族の支持を得るほどに求心力のあるものでした。
3-5 法然死後の浄土宗
法然死後も、浄土宗は厳しい弾圧に合い、分裂を余儀なくされてしまいます。さまざまな分裂を繰り返していく中で、浄土宗は鎮西派と西山派、そして他宗として親鸞の浄土真宗と一遍の時宗へと分かれていきます。
浄土宗が最盛期を迎えるのは江戸時代です。時の権力者である徳川家康の絶大な支援を得るからです。幼い頃から浄土信仰にを持っていた家康は、松平家が代々浄土宗であったこともあり、芝の増上寺は徳川家の菩提寺となります。
明治時代に入ると徳川幕府による支援もなくなり、廃仏毀釈も吹き荒れることで大きく低迷します。しかし現代でもなお、約7000の寺院と約600万もの信者に支えられる、日本有数の宗派として、法然の教えを布教し続けています。
4 浄土宗の仏壇仏具・法要マナーなど
4-1 浄土宗の仏壇
浄土宗の仏壇には、阿弥陀如来を中心に、右に善導大師、左に法然上人をお祀りするのが一般的です。その下の段には、ご先祖様の位牌を並べ、ご本尊とご先祖様の両方に対して礼拝します。
浄土宗の仏壇は、木目を活かした「唐木仏壇」が用いられることが多いのですが、金仏壇も使用します。金仏壇といえば浄土真宗ですが、極楽往生を願うという点では浄土宗も同じなので、極楽浄土の世界を再現した浄土宗用の金仏壇というものも存在します。浄土真宗の金仏壇との違いは、位牌段の有無です。浄土真宗では位牌を祀りませんが、浄土宗では先祖に対して礼拝するために位牌を祀ります。
また、最近では宗派の様式にとらわれない家具調仏壇や、コンパクトなサイズのモダンな仏壇もよく選ばれています。
4-2 浄土宗の戒名・位牌
浄土宗の戒名の特徴は「キリーク」と「誉号」です。キリークは阿弥陀如来を表す梵字で、戒名の頭につきます。そして戒名の中に「誉」の1字が入ります。これは、鎌倉光明寺の三世である定慧が始めたもので、自らに「良誉」と名付けたからだそうです。
上から順番にキリーク・院号・誉号・道号・法号・位号です。
4-3 浄土宗の数珠
法然は、念仏をひたすら称えることで極楽往生できると説いています。浄土宗において数珠は往生を願うためのものであり、念仏の数を数えるためのものでもあります。浄土宗の数珠は、2つの数珠を交差させた独特の形状をしています。男性用は「三万浄土」、女性用は「六万浄土」と呼ばれ、数珠の玉をすべて手繰っていくと、男性が32400回、女性が64800回称えることができることに由来しています。素材や房の色などに特に決まりはなく、好みのものを選びましょう。
4-4 浄土真宗のお焼香
浄土宗の公式ホームページでは、特に回数について詳しく書いていません。むしろ、心身を清らかにすることや、お香の摘み方について言及しています。お香は右手の親指、人差し指、中指の3本でつまみ、額のあたりまで持ち上げ、そして炭の上に落として焚きます。回数は、形式的な3回でも、真心を込めた1回でも、どちらでもよいとしています。
末法の世に生きた法然による専修念仏が浄土宗の教えの根幹です。しかしそれは、飢えに苦しむ庶民たちを目にした時に、法然なりにたどりついた最良の教えだったに違いありません。
現代には現代の仏教の役割があるはずです。浄土宗の「ともいき財団」では、「認知症カフェ」や「心といのちの電話相談室」の実施や、若い世代の僧侶たちによる浄土系アイドルの活動、ペット供養を考えるフォーラムなど、今の時代だからこその布教活動を積極的に行っています。法然上人が目の前の衆生を救済するために何ができるのかを考え続けたその意志が、現代においても息づいているのかもしれません。